「人生のピークは18歳。東大に合格したとき」という、しんめいP。32歳で無職になり、離婚して、実家のふとんに一生入ってると思われた彼が自身の“虚無感”をなんとかしようとしてたどり着いたのが「東洋哲学」でした。そんなしんめいPによる著書『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』(サンクチュアリ出版/監修・鎌田 東二)から、東洋哲学の哲学者を紹介します。第2回目は、自分探しのために6年間苦行に耐えたブッダが悟りを開くまでの物語です。
歴史をうごかしたおかゆ
しかし、ブッダは、革命的なことを考えついてしまう。
たった6年だけど、めちゃくちゃ本気で苦行してきた。でも、なんか手応えがない。
「これ、もしかして意味ないんじゃね…?」
もっと他に方法あるやろ、とおもったのだ。
しかし、方向転換するにしても、断食しすぎて体力も気力もゼロである。客観的に見て、死にかけの中年男性である。
ここでブッダが力つきていたら、仏教はうまれなかった。
しかし、ブッダは「持っていた」のだ。奇跡的に、人類の歴史の転換点をつくる人物があらわれる。
「あのイケメン死にそうじゃね?」
と心配した近所のギャルが、おかゆをもってきてくれたのだ。
ギャルはすごい。ふつうの人は「断食してる人に、ごはんあげるとか失礼だよね」って遠慮すると思う。ダイエット中の人にケーキあげないのと一緒だ。
ここで、ブッダに究極の二択にせまられた。
――おかゆを食うか、食わないか。
思い出してほしい。ブッダは、妻と生まれたての子供を捨てて、苦行にうちこんできた。
ここで、おかゆを、しかもギャルのおかゆなんて食ってしまったら、今までの努力が無意味になるやんか。
元妻からしても「は? なめてんのか?」な事案である。
自分探しプロの同業者からも「あいつ、終わったな」とおもわれること必至。
しかし、ブッダはここで、のちに人類の歴史にのこる、重大な選択をした。
「おれ、おかゆ、食う。」
おかゆを食うことでみえるかもしれない、新しい景色に賭けたのだ。
ズズズッ(食べる音)
あぁ…うまい…(感想)
うまいよね…(ギャルの感想)
ギャルの慈悲がつまったおかゆは、沁みた。
ブッダの体力と気力がモリモリ回復した。過去最高のコンディションである。
そのままの勢いで、食後、おっきい木の下で瞑想したら、
悟りを開いてしまった。
そんなことある? ちなみにこのギャルは「スジャータ」という。コーンスープとかでおなじみの日本の食品メーカーの名前の由来になっている。
自分とか、ない。
悟った、ということは、「本当の自分」の答えが見つかったということである。
いったい、どんなものなのか?
その答えは
「無我(むが)」
だった。
自分とか、ない。
なかったんだってさ。
いやいや、ないって? ここにあるやん? どういうこと?
ひとつたとえ話をしよう。ぼくは家がゴミ屋敷なので、すぐモノがなくなる。
ある日、どうしてもサッカーの日本代表戦をみたくて、テレビのリモコンを部屋中探したのだが、見つからない。2時間探してもみつからず、試合が終わってしまった。悔しかった。
しかし、翌日気づいた。おれ、そもそもテレビ持ってなかった。
ホラーである。
仕事がきつくて頭がおかしくなってた。
探していたリモコンは、そもそも存在しなかった。
「ない」ものを探すことは、完全にムダで、おそろしい苦しみだった。
「自分」がない、のだとしたら、「自分探し」はそりゃ苦しいはずである。