なぜスイスはルワンダ大虐殺の首謀者を見逃したのか 政府が歴史検証へ

1994年に起きたルワンダ大虐殺の責任者を裁く国際刑事法廷メカニズム(IRMCT、オランダ・ハーグ)で、冒頭手続きに参加したフェリシアン・カブガ被告は認知症のため公判に不適格とする弁護団の主張が認められ、公判は無期限延期となった (UN-MICT/ICTY)

東アフリカ・ルワンダで約80万人が犠牲になったジェノサイド(集団殺害)から30年。当時、その「スポンサー」と称される男がスイスに逃げ込んだが、スイス政府は入国を阻むことも逮捕もせず、男が高齢を理由に無罪放免となるのを許した。なぜ男は逮捕を免れたのか――政府による歴史検証が始まった。

ルワンダの少数民族ツチに対する1994年のジェノサイドを扇動した容疑で国際指名手配されていたフェリシアン・カブガ被告は、25年以上にわたる逃亡生活の末、2000年にフランスで逮捕された。米国は500万ドル(約5億3500万円、逮捕された2000年当時)の懸賞金をかけていた

カブガは逮捕時、すでに80代。ルワンダ大虐殺の責任者を裁く「国際刑事法廷メカニズム」(IRMCT、オランダ・ハーグ)は2023年、カブガが重い認知症を患っているため公判に不適格と判断。司法手続きを打ち切り、被害者の大きな落胆を買った。

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だが、スイス次第でこの事件の展開は違っていたかもしれない。大虐殺が収束に向かっていた1994年7月、カブガはビザを取得しスイスに入国していたのだ。スイスはその4週間後、カブガをザイール(現コンゴ民主共和国)に追放した。その理由は不明だ。その後、カブガは消息を絶った。

緑の党(GPS/Les Verts)所属の連邦議会議員クリスティーネ・バーデルチャー氏は、「カブガがこれほど長い間、司法追及を逃れられた理由の1つはスイスにある。スイスにはおそらく1994年に彼を逮捕する機会があったはずだ」と指摘する。

スイス政府は今、この事件を見直そうとしている。バーデルチャー氏は連邦内閣(政府)に対し、カブガを逮捕しなかった経緯の検証を求める動議を提出した。連邦議会は今年2月、動議を可決し、今後2年間で報告書が作成されることになった。

なたを配り、プロパガンダを広めた

ルワンダ大虐殺の生存者団体「イブカ」スイス支部のセザール・ムランギラ会長は、カブカについてこう話す。1990年代初頭、ルワンダの多数派民族フツのカブガは裕福で広い人脈を持ち、同じフツのジュベナール・ハビャリマナ大統領(当時)の側近だった。娘2人を大統領の息子たちに嫁がせ、政府の役職に就くことなく政治権力をふるっていた。

ハビャリマナ大統領が暗殺された翌日の1994年4月7日、虐殺は始まった。フツ系政治・軍事組織の過激派が、大統領を暗殺したのはツチ族だとして、ツチ襲撃を指揮した。国連のルワンダ国際刑事法廷(ICTR)は1998年と2011年に発行した起訴状で、カブガは過激派の1人だったと位置づけた。

ムランギラ氏は、「カブガはジェノサイドの『スポンサー』と呼ばれていた。ジェノサイドを計画し、民兵に実行する物理的・思想的な手段を与えたグループの一員だった」と話す。

カブガは1994年4月、国家防衛基金(FDN)の設立を支援した。基金は、虐殺に加担したフツ系青年民兵組織インテラハムウェの武器弾薬の購入資金になった。カブガはFDN委員会の長として何度も基金への寄付を募った。

また、経営するカブガETSを通じて鉈(なた)を輸入し、ルワンダ西部ギセニを襲撃するインテラハムウェに配布した。さらに、輸送車両と制服を提供した。

ICTRは、カブガはプロパガンダにも関与していたと主張した。カブガは仲間たちと1993年、ルワンダでのツチの一掃を最終目的とし、ヘイトスピーチを流すため、フツ系ラジオ局「千の丘」(RTLM)を共同設立した。多くの歴史家が、RTMLはツチへの憎悪を煽り、時には標的の個人名を挙げることで、フツ一般市民の動員を強化したと述べている。

「正体」に気づかずビザ発給

大虐殺さなかの1994年6月6日、カブガは隣国ザイールの首都キンシャサにあるスイス大使館に、自分と妻、子ども7人のビザを申請した。ビザは3日後に発給された。スイス政府が後に議会で明らかにしたところによると、外務省が「カブガの正体に気づいた」のは6月14日。当局はビザを取り消そうとしたが、カブガはすでにビザを受け取り、ルワンダに帰国していた。

スイス外務省は翌日、カブガをスイスに入国させないよう入国管理当局に指示した。しかし、入国は禁止されなかった。ルワンダで80万人以上が犠牲になるなか、カブガ一家は7月22日、スイスに入国した。

カブガはスイス入国から2週間後、ジェノサイドの罪で仏パリで起訴された。その翌日、スイスで亡命を申請した。

カブガがスイスに滞在していることをスイス司法警察省と外務省が把握したのはこの時点だったとされる。司法警察省は直ちに、カブガとその家族にジュネーブ空港からキンシャサ行きの飛行機に乗るよう命じた。一家は8月18日に出国した。だが、航空券代2万1302フラン(約160万円、1994年当時)の支払いを一家が拒否し、スイス当局が速やかに出国させるため肩代わりしたことは、スイスの納税者に多くの疑問を残した。

逮捕しなかった公式の理由

なぜカブガは逮捕されなかったのか――検証作業ではこれが最大の焦点となる。スイス政府は議会に対しこれまで部分的にしか回答していない。その1つは、1994年の法体系が現在とは異なったという説明だ。当時、武力紛争に関するジュネーブ諸条約違反で裁判にかけるには軍刑法を根拠とするしかなかった。

提訴するには、政府は「非難されるべき行為が行われたという具体的な推定」を必要とした。カブガは1994年6月に作成された「要注意人物」リストに載っており、政府はカブガのRTLMへの出資や同局の放送内容を知っていたものの、政府はカブガがジュネーブ諸条約に「個人的に違反」したことを示す証拠は1994年夏の時点では存在しなかったと主張した。

しかも、外務省が逮捕の法的可能性を探り始めたのは、カブガが国外追放される前日の8月17日だった。

スイスは2000年にジェノサイドの罪、2011年に人道に対する罪を刑法に盛り込み、2001年には国際刑事裁判所(ICC)規程を批准した。こうした変化によって、スイスは外国で重大な罪を犯した容疑者を訴追しやすくなった。バーデルチャー氏は、カブガ事件の影響もあったと話す。

蜜月にあったルワンダとスイス

カブガのスイス入国を防げなかったことは、カブガの追放直後から議論になっていた。司法警察省は1990年代半ば、ビザ問題に焦点を絞った調査を委託した。カブガ事件に関するこれまでで唯一の公式調査だ。報告書は、入国管理当局がカブガのビザ申請を十分に審査せず、入国を禁止しなかったという行政上のミスを指摘した。

当時の外国人局長を務めていたアレクサンドレ・フンツィカー氏がその責任をとり、1994年12月、「健康上の理由」により59歳で早期退職した。同氏自らカブガにビザを発給し、入国禁止を国境警察に伝えなかったと言われている。ベルンのルワンダ大使館に勤務していたカブガの義理の息子ファビエン・シンゲイと親交があり、何度か食事をしたことがあった。シンゲイは1994年8月、違法なスパイ行為により国外追放になった。

カブガが逃亡先にスイスを選んだのは驚くことではない。スイスは1960年代以降、開発協力の重点国だったルワンダと密接な関係を築いていた。この関係がジェノサイドの終結後、調査の対象になった。外務省が委託した1996年の報告書は、開発協力局は1994年4月以前に緊張を緩和するための政治的な行動を何一つとらなかったと結論づけた。

バーゼル大学の歴史学者タヌシヤ・コーン氏は、「カブガがスイスにいて、事件を実際に追及できれば、ルワンダでのスイスの役割について広範な議論ができただろう」と話す。だが、政府が過去の行動を明らかにするまでは、すべて推測に過ぎないとも言う。同氏は現在、ジェノサイドに至るまでの国際援助機関の行動を調査している。

30年越しの失望

イブカ・スイスのムランギラ氏は、カブカ事件についてこう話す。カブガは、国際逮捕状が発付されたにもかかわらず司法手続きを逃れようとした、ジェノサイドの首謀者の1人だ。まだ逃亡中の容疑者もいる。被害者にとって、カブガが長年姿をくらました結果、公判に不適格と判断された衝撃は大きい。

自身もジェノサイドの生き残りである同氏は、「30年越しの失望だ。国際司法は完全に失敗した」と話す。「年月の経過は被害者にとって不利だ。多くの生存者や目撃者が亡くなってしまった」

一方、ベルンでは、バーデルチャー氏が、政府による検証はカブガ事件でのスイスの対応への「象徴的な償い」になると期待している。

「起きたことはもはや取り返しがつかない。だが、歴史的な再評価はスイスの役割を明らかにできる。起きたことを正確に把握すれば、理解を深められる」

編集:Virginie Mangin、英語からの翻訳:江藤真理、校正:ムートゥ朋子

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