たま・石川浩司「たま現象」を回想 「どこに行っても場違い(笑)。自分たちでもジャンルがわからない」

あなたは「たま」というバンドを知っているだろうか。その前に1989年2月から1990年末にかけてTBS系で放送された『三宅裕司のいかすバンド天国』通称「イカ天」と呼ばれ人気を博したアマチュア・バンドのコンテスト番組をご存知だろうか。フライング・キッズやブランキー・ジェット・シティ、ジッタリン・ジンやBEGINなど多くの人気バンドがこの番組に出演し、メジャー・デビューのチャンスを手に入れた。そうしたバンドの中でもひときわ異彩を放っていたのが「たま」だ。番組でも演奏した「さよなら人類」が大ヒットし、「たま現象」と言われるほど幅広い層からの人気を得ていた。

どこか郷愁を誘う楽曲もユニークだが、4人のメンバーの風貌も実にユニーク。知久寿焼(ボーカル&ギター)は前髪が寸足らずのおかっぱ頭で古着のようなシャツにズボン。石川浩司(ボーカル&パーカッション)は坊主頭に白ランニングと半ズボンで鼓笛隊のように太鼓を一つ肩から下げている。この二人に比べたら柳原幼一郎(ボーカル&キーボード/現在は陽一郎)と滝本晃司(ボーカル&ベース)は普通の格好だが、4人が並ぶとキャラのデコボコ感が半端ない。さらに4人が奏でる音楽はロックではないしフォークとも言えない。けれども彼らの曲は初めて聴いてもずっと聴き続けて来たような親近感を覚え、似たものを一度も聴いたことがなかったと思える新鮮さを感じさせる。そんな「たま」は、「イカ天」に出場する数年前から地道な活動をしていて、「イカ天」で注目を集めた後も地道に活動を続け、2003年に解散した。

解散の翌年、石川は「こんな面白い経験は記録に残さないともったいない!」と、「たま」結成の経緯から解散までを一気に綴った『「たま」という船に乗っていた』(ぴあ・刊)を出版。それから18年を経て「たま」のファン歴30年を自負する漫画家の原田高夕己がコミック化した『「たま」という船に乗っていた~さよなら人類編』の配信を「webアクション」で開始、2022年7月に単行本化された。こちらは「イカ天」で注目を集めるまでのいわば前編なのだが、このコミック本が話題となり、絶版になっていた石川の著書にその後を書き加えた増補改訂版が2023年3月に出版され、さらに原田が後編を描いた『「たま」いう船に乗っていた~らんちう編』が2024年に入り出版された。バンドが再結成したわけでも、シティ・ポップ・ブームに乗ってリバイバルヒットといったこともないが、「たま」は何となく脈々と時代を超えて愛され続けているようなのである。

前置きが長くなったが、これらを読むと「たま」誕生の発端と、このバンドのユニークさの源は石川にあるようなのだ。今もソロ活動と並行して幾つものバンドに参加し、映画や演劇出演や音楽を担当、さらにアート・ギャラリー「ニヒル牛」を妻とともに経営しているが「根がグータラだから」と実にマイペース。寒いのが苦手と2月はタイに避寒するのが慣わしとなっているそうだ。そんな石川に「たま」のこと現在の彼の活動のことなどを語ってもらった。(今井智子)

■音楽で食っていけるとは思っていなかった

ーー『「たま」という船に乗っていた』は最初に出版されてから20年を経て、今回の「らんちう編」によってようやく完結を見たというか、現在に繋がったのかなと思いますが。

石川浩司(以下、石川):「らんちう編」は、最初に書いた僕の著書だけじゃなく、漫画家の原田さんとか編集の平田さんとかが客観的な視点が入ってくる。他にもワタナベイビー(ホフディラン)とかお客さんとか。漫画では客観的に広く描かれているんで、よかったなと思います。

ーー石川さんが「たま」のことを記録に残そうと思ったのは、何かきっかけがあったんでしょうか。

石川:僕らみたいにアングラ系の音楽をやっていた人たちが世に出て、いろいろハプニングがあって、こんな面白い経験は記録に残さないともったいないと思って。もともと文章書くのが好きで、中学の時に詞を書いて、それが当時住んでいた前橋市民の歌みたいなコンテストに応募したら通って、曲になって大きなホールでオペラ歌手が歌ったり。それで深夜ラジオとか雑誌に投稿するのが趣味になった。自分のホームページで20年以上毎日書いて続けているし、雑誌とかにコラムを書いていた時の編集者に勧められたというのもあるんですけどね。書くのが好きなんで本になったら嬉しいなと思ってた。最初はバンドのことだけ書いてたんです。そしたら編集者に「足りないものがある。女を出せ」と言われて(笑)。僕は妻以外ほとんどつきあったことがないから、しょうがないから妻のことを書いた。

ーーつまりは石川さんが伝えたいのは奥様と「100年一緒に遊ぶ」約束をしてることなんだろうなと思いました。そういう楽しい内容ですが、メインになる「たま」というバンドの成功譚ではなく、結成から成功の山を越えて、さらに現在の石川さんに続くドキュメンタリーですが、音楽をやるうえでの面白いシミュレーションになっているようにも思いました。

石川浩司:ちょっと特殊な例ではありますが、こういうパターンもあり得るかと思いまして。僕は20代の頃は、三上寛さんとか(パンク・バンドの)突然段ボールとかアングラ系の音楽が好きで、そういう人達ですら音楽だけでは食えない時代だったから、自分のやりたい音楽で食っていけるとは思っていなかったんですよ。だからバイトしながらライフワークとして音楽はやっていこうぐらいの気持ちでいたので、よもやよもやのデビューで。でも根っからのグータラなんで、他の仕事をしないで音楽でいければそれはそれでいいよなと思ってる。でも基本的には自分の好きなことしかやらないし、できないし。それでなんとか画策してやってる感じですね。

■自分たちでもジャンルがわからない

ーー「たま」ができるまでが面白いですね。石川さんのアパートの部屋が梁山泊状態。そこで4人が出会って「たま」になる。

石川:最初から一緒にバンド組もうなんて話はなかったですから。それぞれソロでやっていたから、お互いのライブを見に行って面白いなと思ったところで友達になって。柳原なんて最初は麻雀しに来ただけだし(笑)。それで一緒にイベントでもやろうってなって、最初はそれぞれソロでやってたのがマンネリになって来て、一度バンドごっこやろうと。やってみたらそれが評判よかったので、一緒にやろうかと。だからシンガー・ソングライターの互助会みたいなものなんです。誰かがメインで歌っているときは、他の3人がバックに回るというか、茶々を入れるみたいな感じで。

ーー4人ともソロでやっていたから、4人とも歌えて曲も書けて多様な楽曲を生んで来たんですね。

石川:80年代に入ると、テクノとかも入って来てオシャレな感じの音楽も増えて来たから、僕らはどこのライブやイベントに行っても場違いというか。アコースティック楽器だからとフォークのイベントに呼ばれても、立ちながら太鼓叩いて踊るフォークは、ないと言われて。アコースティック楽器だからロックじゃないと言われて。途中で即興でセッションするけど、だからといってジャズじゃない。どこに行っても場違い(笑)。自分たちでもジャンルがわからない。これが楽しいからって感じでやってただけで。

ーー石川さんはパーカッションというか太鼓担当ですが、バンドを組む前に芸能山城組(民族音楽を題材にした芸術集団)に参加して打楽器を学んだとか。

石川:高校を卒業した後に浪人してる時に友達が「芸能山城組という変なグループがあるからおめえもどうだ?」って教えてくれたんで暇だし入ってみるかと。やってることがケチャとかすごく面白くて太鼓も教わったんですけど、自分は皆と同じ動きをするとか集団行動が苦手だとはっきりわかって。それで一人でやらなくちゃと思って、ギター弾き語りでライブハウスとかで始めたんですね。でも「たま」を結成した時にギターが一番下手で、「お前、太鼓持ってただろう」って言われて太鼓になっただけで。その太鼓も、ゴミ捨て場に落ちてたのを拾っちゃったから。その頃セッション遊びをやっていたので、これがあれば叩いて遊べるぞぐらいの気持ちだったんで。ゴミを拾わないような清潔な性格だったらね(笑)

ーー石川さんには、捨てられていた太鼓がピカピカの宝物に見えたんでしょうね(笑)。そうした偶然もあったのでしょうが「たま」の4人は絶妙な組み合わせですよね。

石川:集めようと思って集めたわけじゃないんですけどね。結果的に自分たちが「面白いなアイツ」と思って友達になってったら、そういうことになった。音楽的にもバラバラで、ブルースが好きで集まったとか、そうのじゃなくて。それぞれ聴いている音楽も違う。僕が思うに、音楽というより詞の世界が、日常と非日常の間とか、そういう不思議な風景が思い浮かぶような歌を感じて、「コイツ面白い」と思って友達になった感じですからね。あと「これ聴いてみろよ」ってお互いにやりとりしたり。あの頃は怒られなかったからライブハウスにでっかいカセットデッキ持ってって録音してたんだけど、その中でベース弾き語りの人がいて「この人変だなあ」と思ってたら原マスミさんで、そのテープを知久くんにあげたらハマって。逆に知久くんからは友部正人さん勧められて聴いたら詞の世界がすごくて。そういう感じでお互い刺激しあって広げて行った感じですね。

■不器用は武器になる

ーー先ほど三上寛さんなどを挙げてらっしゃいましたが洋楽はどんなものを聴いてこられたんでしょう?

石川:すごく一般的なんですけどビートルズから入って。だんだん聴いていくとビートルズの後期って、すごい売れてるのに実験的なこととかアングラ性の高いことをやっててすごく面白いなと思って。高校生になってからはプログレ系。キング・クリムゾンとかイエスとかピンク・フロイドとか聴くようになった。日本では三上寛さん遠藤賢司さんとか、あがた森魚さんとか。高校時代は群馬に住んでたんですけど、普通に暮らしてると普通にメジャーの漫画とか音楽しか入ってこないんですよ。それで深夜ラジオにハマって。昼間TVじゃ流さないものが刺激的でハマってった。

僕はTBSパック・イン・ミュージック派で好きなDJは野沢那智さん、愛川欽也さん。かまやつひろしさんが何かのCMソングを、歌詞は決まってるけど毎回即興で歌っていて、即興で曲を作るのは面白いなというのは、かまやつさんに教わった。僕は基本はフォークよりロック系だったんですけど、子供の頃から手先が不器用で。あと理科が苦手だったんです。ロックは最低限の電気知識がないとアンプ使ったりできない。そこから無理。フォークなら生ギターでそのまま音が出るしマイクなくても歌えるし。

ーー思いがけないところにハードルがあったんですね。でもそれが逆に功を奏して個性になっていく。

石川:そうなんです。できない部分が多かった。未だにFコードが抑えられない。でもできないことを、逆にどうするかみたいなことは姑息に考えてます(笑)。子供の頃は転校が多くて、いじめられっ子だったんですけど、くだらないバカバカしいことをやってたら受け入れられて、友達も増えたから。不器用を隠すんじゃなくて、逆にオーバーアクションにしたら受け入れられた。これは「不器用は武器になるぞ」と。ひとって、マイナスの部分がどうしてもきになっちゃうけど、それは単にここが凹んでるということ、ということはどこかが突起になってる部分がある。それを見つけられるかどうかですね。それが役に立つかわからないですけど。

ーー石川さんのそういう面が「たま」の中でも重要だった気がします。「さよなら人類」で大成功を収めましたが、「たま」は冷静にそのチャンスを有効に生かして活動していたのではと思います。

石川:その頃は、メンバー内で確認じゃないですけど、何かちょっとでも「もっと売れるためにこうしよう」みたいなことを誰かが言ったら、残りの3人の目が「おめえはそういうヤツなんだな」ってキツくなってた。そう見られたくないから、自分のすべきことをやってた感じですね。あの1回がラッキーだっただけで、自分のやるべきことをやろう、というのは確認しあっていました。だから解散して21年ですけど、いまだに全員現役でやっている。好きなことを続けてなければ、違う仕事とかしてたかも。

■解散はしてるけど、あんまり終わった感がない

ーーYouTubeに、つい最近の石川さん知久さん滝本さんのライヴ映像がありました。時々一緒に活動されているようですね。

石川:ああ、ついこないだのね。「今から、ないバンドの曲をやります」って、たま時代の曲を(笑)。決して喧嘩してやめたわけじゃなくて、いろんな他のバンドとかをやってたから。本にも書いたけど、「たま」を解散した3日か4日後に僕はパスカルズのヨーロッパ・ツアーで忙しかったから、解散を悲しんでる暇がなかった。次にやりたいことが、次々にあって、今に至っています。

ーー先日ライブハウスでの弾き語りを拝見しましたが、その時も歌っていた「ラザニア」「玄関」の歌詞も著書の中に載っていますね。「ラザニア」では多様性の時代を暖かく歌い、「玄関」は会えなくなった人との惜別の想いを感情豊かに歌っていらっしゃいました。こうした曲を伝えたいというのも、執筆される原動力の一つなのではと思いますが。

石川:この2曲とも解散した後に書いた曲です。やっぱり年をとると死ぬこととか身近にというか現実感があるので、ああいう歌が自然に出てくるというか。ソロの歌に関しては歌詞が重要なんで、海外の人には伝わりにくいと思っていたんですが、前にタイで歌ったら日本語わからない現地の人がワンワン泣き出して、「なんか言ってることがわかった」って。あれにはびっくりしたし、ほんと嬉しかった。

ーー「たま」という船は、石川さんにとって乗り心地は良かったのかなと思いますが。

石川:それはいろいろありましたね。でも基本的に友達から発生してるから、仲は良かったですね。ツアーとか行ってライヴ終わった後もメンバーだけで飲みに行ったり雀荘に行ったり(笑)。ついつい朝になって寝るのは移動のバスの中。若かったからできたんですけどね。今でも、先々週はパスカルズで知久くんと一緒だったし、今度の土曜は滝本くんの家に行って配信ライブがあるし。解散はしてるけど、あんまり終わった感がない。もちろん「たま」をやってた時はライブがなくてもレコーディングや何やかやで毎日のようにあってたから、今は会う頻度は減ってますけど。これからも変わらないんじゃないかな。

(文=今井智子)

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