ガールズ ブラボー!レベッカの歌には10代の女の子が共感できる全てが詰まっている  デビュー40周年!レベッカの歌詞の魅力を徹底考察!

NOKKOの歌を聴き、多くの女の子が思ったこと

NOKKOの声を聴くと、“神様とか信じないフリをしているバッドガールたちの心の声” ってこんな感じなんじゃないかと思ってしまう。鋭いのに心地良くて、少しヒステリックで、急に明るくなったり、太くなったり、時々不安定に揺れたり。思春期の具現化。もっと言えば、レベッカ時代のNOKKOは、女の子たちの感情が憑依するシャーマンだった。

“取扱注意” としたくなるほど伸びる強い声に乗ってくる歌詞には、大人になるにつれ増えていく誰にも言えない秘密や、魅力的になりたいと思う願い、そして無邪気さが薄らいでいく戸惑いがある。妄想炸裂な思春期特有の、夜空の月や星さえもが監視カメラではないかと思うくらいの自意識過剰な罪深さと陶酔感が、思い切りポップになって届いてくる。NOKKOの歌を聴き、多くの女の子は思ったはずだ。

「これは私の物語」

若さ独特のパワーを浴びることができる「ガールズ ブラボー!」

レベッカの大ヒット曲「フレンズ」や「MOON」は、ちょっとしたトラウマ曲でもある。大人の階段を上るときに湧きあがる、“照れくさい” よりもう一段階上の、エゴくて喉に詰まるような罪悪感に満ちている。誰の目も真っすぐ見れなくなる、あの猛烈な “ああ、一線を超え向こう側に来てしまった” 感!

少年少女から大人に変わるプロセスで、どうしても避けて通れない恥ずかしさ、気まずさ。夜遊びや規則違反はもちろん、生々しい恋愛感情も決して楽しいばかりではなく、ショックですらあったと思い出される。ああ、50も半ばになった今聴いても、胸が痛い。

もちろん、成長と共に手に入る喜びも然り。「ガールズ ブラボー!」のように、大人の経験がしたいしたい、子ども扱いしない関係が欲しい欲しい、という溢れ出る好奇心と開放感は、まさに “ブラボー!” 。何だって手に入りそうな気がする、若さ独特のパワーを浴びることができる。

誰かに言いたいけど、言っていいのか分からない体験や欲望。それをNOKKOは外国映画の主人公の打ち明け話のような語り口で投げかけてくる。聴き心地はとてもオシャレだが、余韻はスパイシーだ。

シンディ・ローパーやマドンナを意識したファッション

私がレベッカを初めて見たのはテレビの歌番組だったけれど、歌っていないNOKKOは、すごく “心を閉じている” 印象があった。たまたまかもしれないが、その時の彼女は満身創痍な感じだったのだ。

けれどイントロが鳴ると、NOKKOは別人になった。小さな体から己の魂を抜き去るように上体を振り回す。腕を振り、上体をひねるように激しく動かしてリズムを取りながら歌う!体の揺れも歌声もどんどん激しくなり、目は輝き、顔つきが変わって驚いた。

身体が何か別の力に動かされている感じ。半分はNOKKOのままで、半分は別の人の感情を召喚するのに成功したかのような、不思議な憑依モードに釘付けになった。世の中の女の子たちの、自分では支えきれなくなった過剰な自意識があっちこっちに浮遊していて、NOKKOはそれを吸いこみ、歌っているような―― 。

シンディ・ローパーやマドンナを意識したであろうアッパーなファッションが、NOKKOの繊細さをより浮き出させていた。自らの体を人身御供のように差し出し、彼女の持つ言葉や表現を差し出し、80年代後半の「時代」そのものに歌を捧げていたのかもしれない。

青い春の暴発を思い出すNOKKNO歌詞

NOKKOの歌詞に出てくる “ガールズ” は、イキはいいけれど、手を伸ばしても届かない夢があることを知っている。学校で教えてくれない、教科書に書いていない複雑なことばかり起こる社会に驚き、もがいている。これまでの大切な日々を壊してしまうような変化や出来事(もしくはそうなる予感)に震えている。自然体とは真逆、すべてに意味を感じて過剰反応してしまう “通過点"。NOKKOはそこにアクセスし、欲望と野心、秘密を、代わりに叫んでくれるのである。

そして、警告も忘れない。 “いつだって「月が見てるわ」” と。だからこそ、いくつになっても、青い春の暴発を思い出すのだ。

カタリベ: 田中稲

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