小説=「森の夢」=ブラジル日本移民の記録=醍醐麻沙夫=1

第一章

ブラジル!サンバとコーヒーの国。
わけても赤道に近いサルバドール港の街は陽気だった。
暑い一日がやっと終り夕暮れになると、楽士たちがあちこちの公園の音楽堂で賑やかなサンバを撤き散らす。
サンバの音楽は海からの微風に乗ってヤシの葉をそよがせ、涼しさと憩いをリズムの打ち水のように露路の奥まで運ぶ。
コルネットのくぐもった高音やドラムの力強い響きは、波止場に並んだ葉巻やココアの輸出商会の重々しい金文字の看板を飛び越して、港内に投錨している外国船の人々の旅情までもかきたてるのだった。

背後から残照を受けてイギリス汽船の甲板に五人の日本人の若者が並び、水面を伝わってくる楽音を深刻な表情で聴いていた……。
彼等は五人とも濃い灰色に黒い縦縞の三つ揃いの背広を着込んで山高帽をかぶっている。いくら夕刻とはいえ熱帯である。山高帽の下の額にはジットリと汗が滲んでいた。裸の黒人労働者がその異様な風体に呆れたように何度も振り返りながら、縄梯子を伝わって下船していった゚
「賑やかな陽気な音楽だ。今まで聞いたこともない」
五人の若者の一人が緑に埋った急坂の上下に拡がる原色の街を眺めながら重々しく言った。
「本当だ。長い船旅の疲れもすっかり忘れて、心が晴ればれとしてくるようだ」
一人が相槌をうって頬をゆるめた。
「しかし……」
と他の山高帽が揺れた。
「この音楽がはるばる東洋からやって来た我等五名を歓迎する為であるならば、やがて市長たちの一行が挨拶に来るにちがいない」
「……」
「誰が我等を代表して返礼の演説をするのだ?」
暫くとまどったような沈黙が流れた。
「僕はダメだ」
と一人が言った。
「僕もポルトガル語は聞いたことすらない」
「聞いたことのない言語を話せる訳がないではないか」
「そうだ、そうだ」
「しかし……」
と再び山高帽が揺れた。
「我々は第一回ブラジル移民の通訳としてやって来たのだからなあ。通訳が話せないと言い張るのも妙ではないか」
「それはそうだが……」
意気消沈した返事があった。

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