“違和感”に耐えられない視聴者が増加? テレビドラマの過去と未来を守るために必要なこと

早稲田大学教授・岡室美奈子が執筆した『テレビドラマは時代を映す』(ハヤカワ新書)は、2019年4月から2023年3月にかけて月に一度連載していたテレビ番組を紹介するコラムに、戦後のドラマ史を振り返る論考「ドラマをめぐる旅」を追加したテレビドラマにについて書かれた新書だ。本書の連載期間中に平成が終わり、新型コロナウイルスの世界的な流行が起こり、2020年に開催予定だった東京オリンピックは1年延期となった。

そんな激動の時代に作られたテレビドラマを岡室はどのような意図で記録したのか。ドラマ評論家の成馬零一と語り合ってもらった。

●地上波ドラマだからこそ

成馬零一(以下、成馬):今回の新書は、毎日新聞の連載をまとめたものですね。連載の時は「教授・岡室美奈子の私の体はテレビでできている」というタイトルだったそうですが?

岡室美奈子(以下、岡室):毎日新聞はよく許してくれたなと思います(笑)。「教授」については、連載を始めるにあたり、「肩書きを考えてくれ」と言われて、悩んだんです。演劇博物館の館長をやっていたので「館長」にしようかとも思ったのですが、意味がわからないですし、「テレビウォッチャー」や「テレビライター」というのも当たり前だと思って悩んでいた時に『すいか』(日本テレビ系)で浅丘ルリ子さんが演じた「教授」のことを思い出して「だったら教授でもいいかな」と思って、無理やりひねり出しました。

成馬:「私の体はテレビでできている」は川島なお美さんの名言「私の体はワインでできている」からですね。

成馬:川島なお美さんの名言をもじって宮藤官九郎さんが『私のワインは体から出てくるの』(学研プラス)というエッセイ集を出しているんです。宮藤さんのエッセイが大好きなので、そこからいただきました。

成馬:連載の初回っていろいろ考えますよね。肩書きの話もそうで「教授」と名乗ったことで連載の方向性が決まったのではないかと、新書を読んで思いました。

岡室:そこは全く、意識していなかったですね。

成馬:僕の場合、単著デビュー作の『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)を書いた時に、担当編集者から「肩書きはどうしますか」と最後に聞かれて「ドラマ評論家」と名乗ることを決めました。そこで評論家と名乗ったことが、後の方向性や書く内容を決めてしまったように感じます。

岡室:教授ってのはちょっと偉そうだなと思って、そこは少し気になりました。ただ、本当に他にいい肩書きがなかったんですよね。

成馬:読者は大学教授の方がドラマについて書いているということを意識して読まれていると思いますし、その責任を引き受けて書かれている連載だと感じました。特に本書では、テレビドラマ史を綴った終章があることで、歴史を踏まえた奥行きのある論考になっている。このような歴史を踏まえた仕事は、日々の仕事に追われているライターにはなかなかできないことです。同じテレビドラマのことを書いていても、岡室さんと僕の最大の違いって、学問の側にいるか、ジャーナリリズムの側にいるかだと思うのですが、その違いが書いている内容に表れていると思いました。

岡室:ありがとうございます。ただ、私は自分のことを批評家ではないと思っていて、クリティークではなくただ自分が好きなことを書いてるっていう感じなんですね。そこは、ちょっとお気楽かもしれないですね。

成馬:タイトルに「テレビでできている」とありますが「テレビ」という単語が気になりました。僕も単著で出した3冊は全部タイトルに「テレビドラマ」という単語が入ってるのですが、テレビドラマの批評をやってるという意識はあまりなくて、広義の意味で「ドラマ」論を書いているつもりです。特に近年はテレビよりもストリーミングサービスを通してパソコンのモニターで観る機会がほとんどなので、テレビ番組を観ているという意識が年々薄くなってきている。だから、どこかのタイミングで「テレビ」という主語がいらなくなると思ってたけど、なかなかテレビという言葉は外れないですよね。岡室さんの本も「テレビドラマ」が話題の中心で、配信ドラマに対しては意識的に距離を置いているなぁと感じました。

岡室:私は地上波を応援したいという気持ちがすごく強いんです。もちろん配信にも素晴らしいドラマがたくさんあるのですが、配信ってお金を払わないといけないじゃないですか。

成馬:配信ドラマは「格差社会の象徴」だと書かれてますね。

岡室:もちろんNHKには受信料を払っているのですが、基本的に民放はタダで観られることがすごく良いことだと思うんです。観る人が減っているとはいえ、やっぱり地上波の作品は膨大な人が今も観ているので、X(旧Twitter)でトレンド入りするのも地上波の番組ですよね。制作費も減って、もう下り坂みたいに言われてて厳しい立場にある、地上波の番組を作ってる人たちにエールを送りたいという気持ちはすごく強かったです。

成馬:その気持ちは読んでいて伝わってきました。作り手の側も「テレビの危機」を意識しているのか『チャンネルはそのまま!』(HTB)や『エルピスー希望、あるいは災いー』(カンテレ・フジテレビ系)のような、テレビの存在意義を問い直す作品が2019年から増えている。今年放送された『不適切にもほどがある!』(TBS系)もテレビ局が現代の価値観に翻弄される様子を描いた作品でした。

岡室:確かにそうですね。コロナの影響もあってか、メタテレビ的な作品が増え始めた時期だったのかもしれません。

●コロナ禍のテレビドラマ

成馬:第三章の2020年上半期から、コロナの話が中心になっていきますね。当時はコロナの影響でドラマが休止状態となり、プライムタイムで『野ブタ。をプロデュース』(日本テレビ系)のような昔のドラマが再放送される異常事態でした。

岡室:当時、私が館長を務めていた早稲田大学演劇博物館では、コロナによって中止や延期になった舞台芸術作品をどうやって残していくかという取り組みを一生懸命やっていた時期でした。「演劇史の空白にならないように」と考えて活動していたのですが、テレビに関しても、暗黒の時代にならないように、この時代にどんなことがおこなわれていたかということは、ちゃんと記録として残したいという気持ちでした。

成馬:多くのドラマが休止する中で『転・コウ・生』(NHK総合)や『世界は3で出来ている』(フジテレビ系)のようなユニークなドラマが次々と作られました。今振り返ると動きが早かったです。

岡室:当時はテレワークドラマとかソーシャルディスタンスドラマとかいろんな呼び方をされていましたけど、普通に面白かったというのはありますね。連載では取り上げてない作品でも岡田惠和さんの『2020年 五月の恋』(WOWOW)のようなドラマもあって。

成馬:劇中でコロナをどう描くのかに作家性が出てましたよね。たとえば岡田さんはコロナという名称を劇中で使わず、何かが背景で起きているという描き方をしていた。

岡室:坂元裕二さんの『リモートドラマ Living』(NHK総合)もそうでしたね。

成馬:逆に宮藤官九郎さんは、現実の固有名詞を劇中で積極的に使おうとする。

岡室:『JOKE~2022パニック配信!』(NHK総合)もコロナ禍だからこそ生まれたドラマでした。とにかくコロナ禍の渦中に坂元裕二さん、森下佳子さん、岡田惠和さん、水橋文美江さん、宮藤官九郎さんといった名だたる脚本家の方が素早く反応して書いたのが凄いなと思って。しかもどれも面白いんですよね。だから、お金をかけなくても面白い脚本があれば面白いドラマって作れるんだと思いました。ただ、『不要不急の銀河』(NHK総合)の脚本を担当した又吉直樹さんと対談した時に「リモートドラマだとスタッフとして関わる人がすごく限られるため、フリーのスタッフが生活できない」とおっしゃっていて。確かにそうだなって思ったんですね。だから『不要不急の銀河』では、コロナ対策を徹底してスタジオでの撮影に戻したそうで、それは凄いことだったと思います。

成馬:どの作品もどこか演劇的だと思いました。

岡室:場面転換がなく、限られた登場人物で限られた舞台での話となると、どうしてもシチュエーションドラマ的になるので、確かに演劇的ですよね。

成馬:Web会議アプリ「Zoom」を使って制作された三谷幸喜さん脚本の『12人の優しい日本人』がYouTube LIVEで生配信されていました。

岡室:私も観ました。リモート会議の映像と内容が凄く合ってましたよね。

成馬:本書コラムの第1回で、岡室さんが当時使用していたテレビがブラウン管のものだと書かれてましたが、テレビドラマの映像表現ってテレビの画角と画質の影響を強く受けていて、それが結果的に、時代の空気を反映していたんだと思うんです。だから、コロナ禍とともにリモートの分割された映像が現実の中に侵食してきた時に、これが今の時代の映像なんだと感じました。

岡室:そもそもテレビって「顔のメディア」として出てきた歴史がありますよね。映画と違い「顔のアップ」がすごく重視されていたのですが、当時のテレビのモニターが人間の頭部ぐらいの大きさだったこととリンクしていたと思うんです。私が現在使用しているテレビは65インチの薄型ですが、画面一杯に映ると顔が巨大で、クローズアップで映ると、ちょっとギョッとする。なので、Zoomの画面がテレビの中に出てきた時に、また顔のメディアに戻った感じがして面白かったんです。あとリモートの映像って補正されたりするじゃないですか。そのマスク的なところがテレビの画面をメタ的に表している感じもあって、いろんな意味で面白かったです。

成馬:マスクの見せ方も作品によって違いましたよね。コロナ禍を描いた作品でも俳優がマスクを付けないものもあれば、部分部分でマスクを付けているのもあって。俳優の顔が見えなくなることに対する不満と「ドラマを観ている時くらいコロナのことを忘れたい」という視聴者に対する配慮もあってか、マスクの処理に作り手が困っているのが伝わってきました。

岡室:連続ドラマでは『#リモラブ~普通の恋は邪道~』(日本テレビ系)がマスクの描写を最初に徹底してやっていました。一方で『俺の家の話』(TBS系)はコロナ禍だからこそ生まれた「マスクドラマ」と言える作品で、能面、プロレスのマスク、口と鼻を覆うマスクと様々なマスクが登場し、そこに意味が込められている。その後の作品にすごく影響を与えていると思います。コロナ禍に試行錯誤して作られたドラマの多くは苦し紛れだったと思うのですが、「あの時は苦しかったよね」みたいに語られるだけでは辛いという気持ちがあったので、「こんなに面白いものがこんな低予算で作れた」ということをちゃんと言っておきたいと思いました。

●震災と幽霊

成馬:2021年は震災から10年後という節目となる年で『ペペロンチーノ』(NHK BS)等の震災と向き合うドラマが多数作られましたが、この本では震災とテレビドラマの関わりについて書かれた幕間エッセイで、NHK連続テレビ小説『カーネーション』を取り上げています。震災を描いたドラマから「死者とどう向き合うか?」というテーマを読み解くのは岡室さんならではの切り口だと思いました。

岡室:『11人もいる!』(テレビ朝日系)や『カーネーション』など震災以降は幽霊のドラマが増えたとずっと思っていて。「死者と共に生きる」ことはドラマならできるということに気がついたんですね。NHKスペシャルでも被災地で津波で亡くなった方を見たという目撃例が多いというドキュメンタリーを放送して、放送では幽霊という表現は周到に避けていたのですが、「Nスペともあろうものが幽霊を扱うとは何事だ?」という批判も多くドキュメンタリーで扱うことの限界も見せてしまった。でも、ドラマなら「死者と共に生きる」という気持ちを掬い上げることができる。渡辺あやさんが「フィクションは『死んだ人は幸せだった』と言える」とインタビューでおっしゃっていたのですが、フィクションだから言い切れることがあって、それが「幽霊」の描写に表現されているのだと思います。

成馬:『すいか』でも亡くなった人がお盆に戻ってくる幽霊譚がありましたよね。震災以前から木皿泉さんは死者との対話を繰り返し描いていて、震災後に木皿さんのドラマのことを思い出す機会は多かったですね。

岡室:震災後に木皿さんが書かれた『昨夜のカレー、明日のパン』(NHK BS)と『富士ファミリー』(NHK総合)も幽霊の話でしたよね。私は『昨夜のカレー、明日のパン』で星野源が幽霊になって戻ってくる回を何十回と観てるんですけど、毎回号泣するんですね。本当に素敵な幽霊が出てくるんだけど、幽霊になると傷が消えちゃうという話で、だからその傷の痛みがあるっていう事自体が「生きてることの証なんだ」という話で本当に感動するんです。

成馬:本を読んでいると、岡室さん自身が死者や幽霊というモチーフに強いこだわりを持っているように感じるのですが。

岡室:私はオカルト芸術論の授業もやってるので、「生と死を断絶ではなく、連続として考える」っていうことに昔から興味あるんです。確かにそれで反応したのかもしれないですね。

成馬:僕の場合は「生と死の連続性」を「虚実の混濁」として捉えているのかもしれないです。

岡室:なるほど、そうとも言えるかもしれませんね。実は私が研究しているベケットの作品にも幽霊的な存在が多く登場するんですよ。

成馬:ホラー映画的な恐怖の対象としての幽霊とは違う描き方があるっていうことですね。

岡室:震災後の幽霊って怖い幽霊じゃなくて、家族を見守る温かい幽霊がほとんどなんです。震災以降、「死んだら終わり」っていうふうに思えなくなっちゃったんじゃないかと思います。

成馬:それにしても激動の時代ですよね。2019年~2022年の短い間にこんなにいろんなことがあったんだとドラマ評を読んでいて思いました。

岡室:そうなんですよ。本当にこのわずか4年間の連載の間に怒涛のようにいろいろなことが起こったんです。元号が平成から令和に変わり、コロナのパンデミックが起こって自粛期間となってテレビの撮影現場が止まり、オリンピックが延期されて、安倍元首相の事件が起こり、ロシアがウクライナに侵攻した。ドラマに直接関係がなくても、間接的には影響があったと思います。

成馬:コラムで個別に扱っているのは第49回の『silent』(フジテレビ系)が最後ですね。コラムを書かれたのは2023年ですが。

岡室:2023年の3月で連載が終わりますと言われて、じゃあ最後の3回はテレビドラマの過去・現在・未来の話にしようと思ったんです。

成馬:この本で2022年までのドラマ史は総括できたという感じですか?

岡室:どうですかね。『半沢直樹』(TBS系)のような一世を風靡したドラマについても記録として残すべきだったのかなぁと思います。コロナ禍のあいだに放送された2020年度版の『半沢直樹』は至近距離で怒鳴り合うという行為がドラマに没入させなくしていた側面があったと思うんですね。みんながマスクをして距離をとって話している時にマスクもせずに至近距離で怒鳴り合うっていうことに対して拒否反応を示していた人が当時はそれなりにいたんです。

成馬:近年の傾向として、言葉で殴り合うようなディスカッションドラマに対して、特に若い人が拒絶反応を示す機会が増えているような気がします。逆に、生方美久さんの『silent』や『いちばんすきな花』(フジテレビ系)で描かれる対話はものすごく静かで理性的なやりとりですよね。あの会話の作法もコロナ禍を経て出てきたものだと思うのですが、『silent』を観た時は新しい作家が出てきたなぁと思いました。

岡室:『silemt』の凄いところは、湊斗くん(鈴鹿央士)を生み出したことにあると思うんです。私の世代では、湊斗くんの在り方ってありえない。だからいつ闇堕ちするかと思っていたのですが(笑)、そもそも闇というものが存在しない人なんですよね。それが今の若い人たちにすごく刺さった。

成馬:『いちばんすきな花』もそうですが、生方さんのドラマを観てどう思うかに、凄くその人の考え方が出るような気がするんですよね。だから『silent』の感想を人に聞くのが凄く面白かった。やっぱり僕と同世代や上の世代に話を聞くと褒めていてもあの善良で優しい世界に困惑してて、逆に20代前後の若い人に話を聞くと「当然でしょ」みたいな感じで。

岡室:私も授業で学生と議論しました。私も『silent』はコミュニケーションをテーマとしたとても良いドラマだったと思うのですが、湊斗くんをはじめとして純度の高い良い人たちばかり出てきて、現実はそうじゃないよねという思いも捨てきれなかった。でも一方で、なぜ湊斗くんのような人が若い人たちに求められるのかを考えさせられました。それは若い人たちが置かれた状況を考えることでもあるし、それをつくってきた私たちの世代への批評でもあると感じました。

●作品を守るために必要なこと

成馬:そもそも岡室さんはいつ頃からドラマについて書き始めたのですか?

岡室:きっかけはTwitter(現・X)ですね。以前、『木更津キャッツアイ』(TBS系)についての論文を書いたこともあるんですが、その時はあまりうまく書けなくて。その後、2011年頃にTwitterでドラマについて呟くようになってから状況が大きく変わりました。Twitterがまだ幸せだった時代で、みんなといっしょに『カーネーション』や『あまちゃん』についてたくさんツイートしていたのですが、それを目に留めてくれた新聞社の方が取材してくださるようになって、本も書いてないのにテレビドラマについて書いたり語ったりする仕事がいろいろ来るようになりました。

成馬:そこから「テレビドラマ博覧会」までわずか数年だと考えると急展開ですね。

岡室:ずっと演劇研究者をやってきましたが、テレビドラマは子どもの頃からずっと好きだったんですよ。だからせっかく館長になったので任期中にテレビドラマの展覧会をやりたいなと思ってたんですけど、ある日『想い出づくり。』(TBS系)や『ふぞろいの林檎たち』(TBS系)といった作品のプロデューサーでテレビ界の大御所の大山勝美さんから「テレビドラマ展」をやってほしいというお電話をいただいて。残念ながらその数日後に大山さんは亡くなられたのですが、遺言を受け取ったつもりで2017年に演劇博物館で『テレビの見る夢――大テレビドラマ博覧会』と『山田太一展』を開催することになりました。

成馬:『大テレビドラマ博覧会』を開催する上で何か心がけたことはありますか?

岡室:昔のドラマをアナログのテレビで見せるために、ブラウン管のテレビを大量に集めてもらいました。あと、とにかく主観的なドラマ展をやりたいと思いました。私はテレビドラマは主観的にしか語れないとどこかで思っているので、あくまで私にとってのテレビドラマ史なんですよね。

成馬:それはこの本にも表れていますね。ドラマ史的に重要な作品に触れてないなぁと思うと意外な作品を重要な作品として扱っていて。でも、そこに岡室さんの個性が出ていると思うんです。演劇博物館の館長のほかにもフジテレビ番組審議会委員や文化審議会委員など岡室さんは放送関係の役員や委員の仕事にも多数関わっていますが、それはやはり大学教授としての使命感からですか?

岡室:テレビドラマを研究してる人って意外と少ないんですよね。私ももともとの専門は演劇ですし。とにかく、テレビドラマ研究を始める前の子供の頃から本当にドラマが大好きでものすごく観てきたんですよ。だから「観てきた」ということしか私にはないんだけど、でもそうやって、ちゃんとテレビドラマ愛のある人間が公的な場所で語ること、現場の人は現場の人の感覚があるし、普段、ドラマに触れていない人が独自の視点で語ることの面白さもあるんですけど、作り手とは違う第三者的な立場からドラマ史を踏まえた上で語ることはとても大事なんじゃないかと思っています。私が人よりうまく語れると思ってるわけでは全然ないし、キャリア的にも未熟ですが、そういう機会が与えられるんだったら、ちゃんとそこで語っていこうと思います。

成馬:『大テレビドラマ博覧会』はすごくやったことに意義のあるイベントだったと思うんです。ああいう博覧会をアカデミックな場所でできたことの意味はとても大きくて、テレビドラマを歴史的に位置付けて社会的な立場を高めることができる。

岡室:私ごときが言うのもおこがましいんですが、公的な場所で発言することで少しでも放送の地位を上げていきたいんですよね。放送って芸術と思われていないところがあるじゃないですか。「芸術が偉いのか?」という気持ちは凄くありますし、むしろ芸術ではないところがテレビの良さとも思うのですが、一方で人の心の奥底に届くような芸術性の高いドラマは確実に存在するし、テレビの影響力は今でもとても大きい。なのに蚊帳の外に置かれている状況に対する憤りがいつもあって。テレビ業界の人も「放送はいいですから」なんて言う方もいて、私のやっていることが良いことなのかどうかは本当はよくわからないんですね。ただ大学でテレビについて教え始めた時に、これだけ多くの人に影響を与えているのに「スルーされすぎじゃないか?」みたいな気持ちはあって。だから新しい学部ができるときに同僚でテレビ研究の先輩だった長谷正人さんと「テレビのことをちゃんとやりましょう」という話をしました。

成馬:大学ではテレビドラマについて、どのように教えているのですか?

岡室:はじめに長谷さんとテレビ文化論っていう講義と演習を作って、最初は二人で両方やってたんですけど、両方やるのは負担なので、長谷さんが講義をやり、私が演習をやっています。演習では様々なドラマを取り上げているのですが、私も講義をやりたくなってテレビ史という授業を作って、テレビ草創期から現代にいたるまでに放送された良いと思うドラマを取り上げて喋っています。演習では、上から目線で批評するのではなく、できるだけ深く掘り下げて学生たちに豊かに受容してもらうことを心がけています。

成馬:いつごろ始めたのですか?

岡室:テレビ文化論は2008年、テレビ史は2020年ですね。テレビ史を立ち上げた途端にコロナになってオンデマンド授業になったんですよ。だからすごく大変だったんですけど、ちょうど著作権法の改正案が施行された時期で、大学のオンライン授業でも映像を引用していいってことになって。面白いのは、みんな家で課題の作品を観ているので、家族と一緒に観てる学生が多かったんですよ。『ロングバケーション』(フジテレビ系)の話が出て、お母さんが盛り上がりましたと言われたり。ドラマってやっぱり人の記憶を喚起するものだなってことを改めて思いました。演習はいろんな作品を取り上げて、研究発表してもらうのですが、現代のコンプライアンス的な価値観で過去のドラマを断罪する学生もいて、なかなか難しいなぁと思います。

成馬:どう対応しているのですか?

岡室:「当時の価値観について」まずは説明をします。今の私たちの感覚で作品を批判すること自体は否定しないのですが「こういうことが容認されてた時代だったんだ」ということも踏まえてみないと作品の中に入っていけないとは伝えます。

成馬:この本を読んで感銘を受けたのは『あしたの家族』(TBS系)について書かれた第11回なんです。岡室さんが「ドラマ批評をやっている経験からすれば、違和感を抱く箇所こそ重要である」と書かれていて、大変共感しました。

岡室:私が言うのもおこがましいと思ったのですが、「これを書かないと続けられない」と思って書きました。

成馬:この一文があるだけでも、この新書が出版された意味はあると思います。逆にいうと今の視聴者は違和感を欠点だと思っていて、いつも減点法で考えている。それがとても居心地が悪かったので「よくぞ、書いてくれた」と拍手喝采でした。

岡室:主人公が一度結婚に失敗したのに、新たに出会った人と盛大な結婚式を挙げたり、結婚後に、最初の夫と住むはずだった家に住むことへの違和感を理由に『あしたの家族』を批判する投稿が幾つかあったんですよね。なんで主人公があえてそういう決意をしたかが大事なのに、一般的な価値観で叩かれるのは切ないと思って、書いておきたかったというのはあります。

成馬:視聴者が違和感に耐えられなくなっている。少し前は、むしろ違和感を楽しんでたのに。

岡室:正しい人が正しいことをやらないと怒られますよね。作り手が違和感を差し挟むって、それこそ「はて?」と思わせることなので、違和感がないと面白くないですよね。

成馬:作り手の主張と捉えて、間違っていると批判してしまう。『不適切にもほどがある!』の時は特にそれが顕著でSNSの反応を見ていて苦しかったです。

岡室:宮藤官九郎さんのドラマって、誰一人として正しい人は出てこないじゃないですか。登場人物が皆どこか間違えていて、視聴者はそれこそ「不適切」であることを批評的に見ながら、それが自分にも返ってくるというドラマなんだと思うんですよね。

成馬:たとえば、名作と名高い山田太一さんの『想い出づくり。』ですら、現代の価値観で観るとギョッとする場面がありますよね。今は神格化されていますが、部分的に切り取られてSNSに流されたら、いつ炎上してもおかしくないと思うんですよ。

岡室:特に今は映像の一部分を切り取って批判されてしまうので、いくらでも叩かれてしまうんですよね。私はデジタルアーカイブの集まりで「放送のアーカイブをどうやって開いてもらうか」という勉強会をやっているのですが、テレビ局はすごく貴重なアーカイブを持ってるけれど、なかなかアクセスできない。それをどうやったら開いてもらえるかを考えているのですが、同時に古いドラマを表現としてどうやって守るかということも考えないと、放送アーカイブの公開は前進しないと思っています。

成馬:作り手を守るためにも、作られた時代の価値観を踏まえたドラマ批評が必要になっていくのかもしれないですね。

岡室:おっしゃるとおりだと思います。テレビは「時代を映す鏡」だからこそ、そういう批評が大事になっていくと思います。

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