鉄腕アトム「伝説回」も制作…藤子・石ノ森・赤塚が立ち上げた「幻のアニメ会社」舞台裏

アニメ作家・鈴木伸一さん

藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、石ノ森章太郎※、赤塚不二夫という日本を代表する漫画家たちが若き日に住み、切磋琢磨したアパート「トキワ荘」。日本漫画の巨匠たちのルーツとして、漫画ファンには伝説となった場所だ。(※「A」は丸囲み、「ノ」は小さい半角カタカナ)

藤子作品でおなじみ「ラーメン大好き小池さん」のモデルともなったアニメ作家・鈴木伸一さん(90)は、そんなトキワ荘の住人の一人。漫画家からアニメーターへと転身した後、トキワ荘メンバーとともにアニメ制作も手掛けている。そんな鈴木さんに「日本アニメ黎明期」のお話を聞いた。【第2回/全3回】

──鈴木伸一さんは、テレビアニメの黎明期からアニメーターとして携わり、後に文化庁メディア芸術祭でアニメーション部門、漫画部門の評議員長年勤めるなど、日本国内アニメーション史の体現者です。そもそも、鈴木さんがアニメーションの世界に入ることになったきっかけを教えてください。

鈴木伸一さん(以下、鈴木):トキワ荘に住んでいた時、お世話になっていた漫画家の先生から、「横山先生(※「フクちゃん」などを手がけた漫画家・横山隆一さん)が『おんぶおばけ』の16ミリのアニメーションを作っているから、やれるならやってみたらどうか」と言われたんです。僕は子どもの頃から漫画が好きでしたが、アニメーションも、地元の映画館で1日中ディズニー作品を観ていたほど大好きだったので、仕事をやめて喜んで横山先生の元に行きました。

──トキワ荘での生活は意外に短かったということですが(※第1回参照)、そうした縁があったんですね。

鈴木:アニメーションは、鎌倉(※神奈川県鎌倉市)の横山先生のお宅に設けられた「おとぎプロダクション」の作業場で制作していました。僕はトキワ荘を出てそのまま横山先生のお宅に住み込むことになったのですが、ご家族の方が三度の食事を用意してくださったんです。だから、とたんに生活の水準がよくなりましたね(笑)。

──おとぎプロダクションでのアニメーションの作り方は、現在とはだいぶ違っていたと思いますが。

鈴木:アニメ制作会社といっても、横山先生は漫画家ですから、アニメは素人だったんですよ。のちにサンフランシスコのディズニースタジオに視察に行ったりもしましたが、設立当初はみな手探りの状態でした。僕はデザイン会社での経験を生かす形で、エアーブラシを使ったり背景を描いたり、いろんな仕事をやらされました。そのおかげで、アニメーション作家として随分成長できたと思っています。

──その後、おとぎプロダクションから独立し、「スタジオ・ゼロ」を立ち上げています。「スタジオ・ゼロ」といえば、藤子不二雄、石ノ森章太郎(※当時は石森)、つのだじろう、赤塚不二夫という、そうそうたるトキワ荘メンバーが参加した「伝説のアニメ制作会社」です。設立することになった経緯を教えてください。

鈴木:手塚治虫先生の『鉄腕アトム』がテレビで放映されるようになってから(※1963年)、いろいろなアニメーション作品が作られるようになって、僕らトキワ荘メンバーも、うずうずしていたんですね。

──じゃあ皆で集まってやってやろうじゃないか、と。

鈴木:これからの時代は『アトム』のようなSFが主流になっていくんだなと思っていました。そもそも僕は横山先生に憧れてアニメーションの世界に入ったけれど、おとぎプロダクションは名前の通り、おとぎ話のアニメ専門だったんです。若かったから、時代の流行ものにバーッと飛びつく勢いもあって、横山先生の元を離れることを決めました。

──とはいえ、申し出る時はかなりの勇気が必要だったのではないでしょうか。

鈴木:そりゃそうです、こちらから押しかけて招き入れていただいたんですから。おとぎプロを辞めると申し出た時、横山先生から「よそに行っても変なことはするなよ、君は僕の弟子だからね」って言われました。横山先生は弟子をとらないことで有名な方だったのに、その時初めて「弟子だ」と聞いたものだから感極まって、「やっぱり(辞めるのを)やめます」と言ってしまったんです。それでも横山先生は「友達と約束したことはやったほうがいいよ」と、送り出してくれました。

──素敵なエピソードですね……そして心おきなくスタジオ・ゼロ設立に合流できたと。

鈴木:実はおとぎプロをやめた頃、手塚先生に虫プロ(※『鉄腕アトム』などを制作していたアニメ専門プロダクション。設立者は手塚治虫さん)に呼び出されて、「もしおとぎプロを辞めることがあったら、ウチ(虫プロ)に来てくれないか」と言われたんです。

■トキワ荘メンバーとアニメの世界へ

──すごいタイミングで、“漫画の神様”から直々のお誘いが。

鈴木:“トキワ荘つながり”で声をかけやすかったというのもあると思うんですけどね(※手塚さんもトキワ荘の住人だった時期がある)。手塚先生にとって横山先生は、少年時代の憧れの存在だったから、スタッフを無理やり引き抜く形にしたくないとのお考えあっての提案でした。

その時は正直「行きたいな」と思ったけれど、友達と新しいプロダクションを作る約束をしていることを説明したら、「それじゃあ仕方がないですね」と言ってくださいました。そのかわり、いろいろと面倒を見てくれました。手塚先生には本当にお世話になりましたね。その中のひとつに「ミドロが沼の巻」というのがありまして。

──アニメ『鉄腕アトム』の伝説回ですね! 絵柄がそれまでのアトムとは違って、トキワ荘の先生方のタッチになっている、さらには行方不明となっていた原盤が海外で発見されるなど、後年大きな話題になりました。

鈴木:スタジオを作ったには作ったけど、決まった仕事がなかったんです。僕はテレビコマーシャル用の個人アニメーション制作をスタジオ・ゼロとしてときどき請けていたんですけど、それだけでは会社として回らない。そんな時、手塚先生が「アトムを1話作ればある程度余裕もできるんじゃないか」といって持ちかけてくれたのが「ミドロが沼の巻」の制作でした。

──スタジオ・ゼロとしての実質上の初仕事として有名な「ミドロが沼の巻」ですが、その時点で鈴木さん以外は、アニメーション制作の経験がなかったんですよね。

鈴木:「漫画絵なら自分たちはスラスラ描けるから、とにかくやってみよう」となったんですけど、キャラクター表があるのに無視して描いちゃう(笑)。みんな漫画家だから、自分の絵柄で描くんです。

──全体を見渡せる立場にあった鈴木さんは、さぞかし大変だったのでは。

鈴木:この時、僕は作画監督ではなかったので、直したいのは山々だったけど直せなかったんです。それに、手塚漫画の模写にかけては僕よりも歴が長い連中だったから、「僕が手を入れるよりはいいんだろうな」と思っていました(笑)。関係者を集めての試写では、制作の方に「いやぁ、これじゃダメだね」と言われましたね。手塚先生は「面白かったから、まあいいんじゃない」みたいな反応でした。自分が声かけた手前もあったんでしょう(笑)。

──当時の売れっ子漫画家が集まって、いきなりテレビアニメを作ってしまうなんて、まさにおとぎ話のようです。

鈴木:いま振り返れば面白い話ですね。みんな漫画家としての癖が出ていて。でも、その癖があったからこそ、漫画家としてやっていけたんだなとも思いました。

──スタジオ・ゼロは『おそ松くん』(※1966~1967年)、『パーマン』(※1967~1968年)などのヒット作を手がけた後に、鈴木さんの個人スタジオとして形態を変えていきました。そうした変遷を振り返ってみていかがでしょうか。

鈴木:能力の高い人がいっぱいそろってるからといって、アニメーション制作はうまくいかないものだなと思いました。全体のクオリティを統一できる人がいて、初めていい作品ができる。宮崎駿(※アニメーション監督)さんみたいな力のある人がね。

──宮崎監督とはスタジオ・ゼロ時代から交流はあったのでしょうか?

鈴木:当時はまだ東映のアニメーターだったと思いますが、横のつながりはなかったですね。僕が驚いたのは、彼が独立してスタジオジブリで作品を発表するようになってからです。やっぱりすごい人ですよ。

──具体的にはどのようなところに驚かれたのでしょうか。

鈴木:お話ですね。宮崎さんって、物語の材料をいろんなところから集めてきて、それをもっと膨らませるってことがちゃんとできる人なんです。もちろん、絵の統一感も素晴らしい。

──宮崎作品の登場以降、鈴木さんが「これはすごいな」って思ったアニメーションの傾向や流れのようなものはありましたか?

鈴木:うーん……今だって宮崎さんの新作が世界で高い評価をされていますからね(笑)。

──CG技術が本格的に導入されて以降のアニメに関しては、どんな印象をお持ちでしょうか。

鈴木:作業としては決して楽ではないと思いますが……“間違いがない”っていうか、絵の統一は変更しやすいですね。

──「ミドロが沼の巻」のようなことは起こらない、ということですね。

鈴木:そういうことかもしれません(笑)。

【鈴木伸一プロフィール】
1933年長崎県生まれ。中学時代からマンガの投稿を行い、1955年にトキワ荘に入居。1956年、漫画家・横山隆一の主宰するおとぎプロに入社し、以降、現在までアニメーション制作に携わる。2004年、アニメの自主制作集団「G9+1」を結成。2005年には、杉並アニメーションミュージアム館長に就任した(現在は名誉館長)。

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