失われしガザの我が家

著者の4世代にわたる土地と家屋は、2024年1月のイスラエルによるF16ロケットの攻撃により壊され、瓦礫と化した。写真は著者が提供、許可を得て掲載。

2024年1月12日、ガザに住む妹から、打ちのめされる知らせが届いた。多くの思い出がつまった私たちの両親の家が、イスラエルのF16ロケットにより破壊され、私たちの大切な家が瓦礫と化したという。

これはただの家ではない。この家の壁の内側で私は不確かな最初の一歩を踏み出したのであり、その土台には笑い声がこだまし涙が染み込んでいた。ここは神聖な土地で、私は最愛のきょうだいたちと共に、愛に包まれ安心して成長した。

この痛ましい知らせが重くのしかかると同時に、怒りと苛立ちの嵐が心の中で沸き起こってきて、私という存在が飲み込まれてしまうようだった。その後詳細が分かるにつれて、喪失の大きさに私はさらに深く打ちのめされた。

多くのパレスチナ人同様、私は祖父母やおじたちの近くに住み、土地の手入れをし、絆を深めていった。爆弾は両親の家を粉々にしただけではない。70年前にわらと粘土で作られた祖父母の質素な住まいまでも破壊した。祖父母はかつて住んでいた故郷ベイトティマでの虐殺の恐怖から逃れたあとに、立ち直りと希望の象徴としてこの大切な聖域である家を自分たちの手で作り上げたのだ。

1948年10月、ベイトティマはギヴァティ旅団(イスラエル国防軍))によって占領された。当時、シオニスト集団のギヴァティ旅団は、南へと進軍し、行く先々の村人を虐殺するという残酷なヨアヴ作戦を行なっており、その犠牲となったのだ。ベイトティマはかつて平和な村であったが、空爆や砲撃の標的とされ、多数の難民流出を余儀なくされた。

ナクバ以前の1948年2月にも、ネゲブ旅団という他のシオニスト集団が村を占領しようとしたが、ファラヒーン(村人たち)は勇敢に立ち向かった。しかしその後、キヴァティ旅団によってついに村は占領されてしまった。彼らの攻撃により20人の村人の命が奪われ、主な水源や穀倉地帯が破壊され、コミュニティを維持するための心臓部とその精神をも撃ち抜かれた。

居住地を破壊され傷つけられたベイトティマの村人たちは、デイル・ヤシーン事件を含め、愛するパレスチナのいたるところで残虐行為が行われてきたことから、自分や家族の命が奪われるのを怖れた。彼らはガザへと移住することにしたのである。

喪失の悲しみ

強制移住という激変とトラウマの中で生き延びて生活を立て直すために、私の家族はガザの土地を買い、家を建てた。私の祖母はその頃の恐怖と不安、そして深い喪失の悲しみをたびたび思い出していた。すべての中でも喪失の悲しみは最も耐えがたいものだった。

苦痛に満ちた厳しい旅のあいだ、家族は村の親戚の多くを失った。そのうちの子どもの一人が私のおじに当たるムハンマドで、ガザに逃げる途中で亡くなった。

祖母はおじのムハンマドのことをよく語っていた。その話は幾度も繰り返され、子どもを失うことがどんなに苦しいのかを物語っていた。

“When we were fleeing for safety, I sometimes carried Mohammed on my back and sometimes his father did. He was just 8 months old. We walked for many hours, stopping occasionally under a tree to rest and breastfeed. One of these times, he did not respond to my voice when I tried to wake him up.

I called his father over to check on our child. When he saw him, he said, “Allah Yirhamoh,” (“May God have mercy on him”). I screamed ‘No, no! Not Mohammed.’ My breasts were full of milk for the baby that will never drink it, and my heart was crying for a young man that will never be.

I held him high and prayed to God with a burning heart, ‘Ya Allah, ya Allah.’ I clung tight to my beloved Mohammed for more than six hours, unable to let go or believe what had happened. But when I finally found the strength to let go, his father dug a grave for him, somewhere along the road, under a tree, and we returned him to our mother, the earth.

I pleaded with the earth to treat him kindly. He was a sweet child. I asked her to be gentle with him, for she had taken the most precious thing I owned — the soul of my soul.

We barely had a few minutes to say goodbye, when the Israeli gangs started getting closer and shooting at us. They took away everything from us, even our final goodbye.”

安全なところへと逃げているとき、私はムハンマドを背中に負ぶって、時々夫と交代していたの。ムハンマドはちょうど8か月。私たちは何時間も歩き、時折木の下で休んでお乳をあげた。ある時、ムハンマドは私の声に応えず私は起こそうとしたの。

私は夫を呼んで見てもらった。ムハンマドを見て、夫は「アッラー・イェルハモ」(神様、この子にお慈悲を)と言ったの。私は「いや、いや! ムハンマドを持っていかないで」と叫んでいた。私の胸は赤ん坊にもうけっして飲んでもらえない乳でいっぱいだった。私の心はこの先見ることのできない若者を想い泣いていた。

私はムハンマドを高く持ち上げ、燃える心で神に祈った。「ヤーアッラー、ヤーアッラー」(ああ、神様、どうか、神様)と。私は愛しいムハンマドを6時間以上しっかり抱いていたの。離すことはできなかったし、何が起こったかも信じられなかった。そして、ついに手放すことを決め、夫はムハンマドのために墓を掘った。道のそばの木の下に。私たちは大地の母の元にムハンマドを還したの。

私は大地に祈った。どうかこの子に優しくしてください。かわいい子でした。私の魂の奥のいちばん大切なものを持っていってしまうのだから、どうかこの子に優しくしてほしいと懇願したの。

私たちはさよならを言う時間がほとんどなかった。イスラエルの追手が迫っていて、私たちに向かって 発砲してきたから。彼らは私たちからすべてを奪ったの。最後の別れさえも。

オリーブの木と先祖の絆

私の家族はガザにたどり着き、70年以上この地にとどまった。

人々は多くのオリーブの木を植えた。そしてオリーブの木々が根を張るように、自分たちもこの地に根を張り、オリーブの木々とともに生きていこうとした。何千年の時を経てこの地に生き死んでいった先祖とのつながりを作っていった。人生の多くの時間をこの地で働き、地元の市場で売るための野菜や果物を作り、ヤギや鶏を飼育した。

年月を経て、ガザの土地とのつながりは深まっていった。その間もずっといつか故郷に帰るという夢を抱いていた。私の祖母は2016年に亡くなるまでずっと、ベイトティマの家の鍵をネックレスにかけて胸の近くにつけていた。

家には家族が集まり、催しがあって、活気にあふれていた。この写真は2021年夏のそのような集まりのときに撮影したもの。家にあった多くの写真は、あの空爆によって失い、家族の思い出は消し去られた。写真提供は著者による。許可を得て掲載。

家は器のようなもので、そこで何世代もが育まれたのだ。子どもを育てることから始まって、時は過ぎ、おじや父は祖父母の家の周りにそれぞれの家を建てた。こうして共に私たちパレスチナ難民3世代を形作った。

今では4代目の世代がこの地での日々を積み重ねていた。その中には私の子どもたちや妹の子どもたちもいる。その家は、抑圧に直面した私たちのソムード(立ち直る力)と私たちが先祖の土地から受け継ぐ揺るぎない絆の証として立っていた。

その家は私たち家族の心のよりどころであった。家族の集まりや誕生日のお祝いや、深夜の笑い声や、まだ電気のない頃の星空観察会のたびに、その鼓動が伝わってきた。家は私たちの結婚式や葬儀を見届け、私たちの生活の真髄を抱いてそこにあった。

このような瞬間のすべてを思い出すとき、私の心は粉々に砕ける。爆弾は私たちの土地や家を破壊しただけではない。私たちの希望や心の奥底の記憶をも打ち砕いたのだ。私たちの楽しさあふれた瞬間、写真や本やベッドや屋根、私たちの大切なオリーブの木の畑に刻まれたすべての思い出が破壊された。

ガザの記憶とトラウマ

私たちは、ガザで生活しているあいだも、戦争や強制移住に深く根ざしたトラウマに悩まされた。私は5年前にガザを去ったのだが、ガザに住んでいた間に4回も大規模攻撃に見舞われた。何度も爆弾が私たちの家の近くに落ちて、爆弾の恐怖の中で生き、命を失うのではないかと恐れた。

私は2008年のガザへの攻撃)を鮮明に覚えている。その時イスラエルの爆撃機が、私たちの家の前を通り過ぎた人を攻撃した。私たちは家の中にいたが、その瞬間、家全体が揺れて、煙が家中に充満し息苦しくなった。恐怖でどこに行けばいいのかもわからず、外に出た。そこにあったのは標的とされた男性の黒焦げとなった死体だった。焼死体を見たのは初めてだった。

砲撃が再び始まって、私たちは数メートル離れたおじの家に駆け込んだ。妹のひとりは燃えた破片でけがをして痛みで泣き叫んでいた。いったいどうすればこのような記憶に打ち勝つことができるだろう。

私が最もショックだったのはオリーブの木々が標的にされたこと。オリーブの木々が何をしたというのだろう。私の祖母が70年以上前に植えた木々。私の家族は4世代にわたり、占領による残虐行為に耐え、植民地支配のもとに生きてきた。

この記憶は私たちの身体に受け継がれている。私たちが耐えてきた残虐行為は私たちのDNAに刻まれ、子どもたち、孫たちというこれからの世代へと受け継がれてゆくだろう。

校正:Motoko Saito

原文 Haneen Abo Soad 翻訳 Moegi Tanaka · 原文を見る [en]