「すごくアジア人っぽいね」一重まぶたの自分を「醜い」と感じていた私が、誇りを取り戻すまで

大人になった筆者

アメリカのアラスカ州で、全米から集まった初対面の11人と共に、私は「心理劇(悩みを抱えた参加者自身が即興劇を演じることで自己理解などを深める)療法」のリトリートに参加していた。

手を差し伸べてもらえ、規則正しい状態が保たれた場所で、私たち参加者はそれぞれの最も深く暗い記憶と安心して向き合うことができた。私は、自分の存在が受け入れられ、理解してもらえるのを感じた。

休憩中、私はこっそり仕事用のスマホを覗き、すぐに後悔した。知らない電話番号から送られてきた匿名のメッセージが、これまでの努力を全て台無しにしたからだ。

「あなたの一重まぶた、すごくアジア人っぽいね」

送り主に心当たりはなかった。心臓が足元に沈んだように感じた。凍りつく、戦う、逃げる、あるいは怯えるという命の危険にさらされた時のような防衛反応が出た。私は標的なのだ。よそ者で、ここに私の居場所はなく、歓迎されていない。危険を感じる。

子どもの頃、学校で私の目について揶揄われた辛い記憶がすぐに蘇った。

「それで見えるの?」

つり目のジェスチャーをされた時のこと、それを毎回笑ってやり過ごすしたり、凍りついたように無言で座っていたりした時のことを、全て思い出した。

「一重まぶただからアジア人っぽい」という言葉自体は差し障りなさそうに思えるかもしれない。でも、私の神経系の奥深くに埋もれていた長年のトラウマの記憶を呼び起こすのだ。

私はそのメッセージをブロックし、スマホをしまったが、見ず知らずの人がの思いつきで送ってきたたった1つのメッセージで、自分が醜く劣っていると感じていた子ども時代にタイムスリップしてしまったのだ。

二重手術をする前、7歳の時の筆者

「なんで私はこんな目をしてるの?フェアじゃない」

一呼吸して立ち上がり、落ち着きを取り戻して、数分前には安全とつながりを象徴していたセラピーグループに再び加わった。

ここにいない誰かからのメッセージのせいで、私の体は今、恐怖と怒りに満ちている。でも、いつものように私は何もなかったかのように席に戻った。

せめて、家族からのメッセージは違っていてほしかったが、私が育った韓国系アメリカ人の家庭では残念ながら同じだった。

小さい頃から植え付けられた美の基準

アジア系と欧米系の最も決定的な遺伝的特徴の違いのひとつは、上まぶたに折り目があるか、つまり二重まぶたの有無だ。アジア人の50%は二重まぶたではない。

二重まぶたを作る眼瞼形成術は、アジアでは最も一般的な美容整形手術であり、アジア系アメリカ人が希望する手術としては3番目に多い。

私は小さい頃から、いつかこの手術をするんだろうと思いながら育った。それはもはや通過儀礼だった。母も、母の姉妹も、私の韓国の友人たちもやっていた。

手術できる年齢になるまでは、二重を作れるアイテープを使っていた。今ではアマゾンや大型スーパーでも二重まぶたテープが簡単に手に入るが、昔は自分で切っていた。

毎日テープを貼るのに疲れた私は14歳の夏、多くの韓国の女の子と同じようにアジア人らしさを少しでも減らし、より欧米人っぽくなるための整形手術を受けた。

手術台に横たわると、不安と孤独を感じ、意識が冴えわたった。韓国人の医師は落ち着いた声で、手術の過程を韓国語で説明してくれたが、私は手術の専門用語を理解するのに苦労した。医師は局所麻酔を打ち、まぶたを切開した。目の上を切開して縫い合わせ、以前はなかった二重を作った。1時間の施術中、ずっと起きていた。

私は恐怖、恥、悲しみ、そして希望の全てが混ざった感情を感じていた。同じ頃、歯科矯正の器具を付けたため、二重手術も似たようなものだと正当化した。痛くて不快だけど、より綺麗な笑顔、この場合は目を手に入れられる、と。

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手術後の回復期間は、目は腫れ、アザができ、触ると痛かった。残りの夏の間、私はほとんど家から出ず、もし外出する時は必ずサングラスをつけた。友人には「旅行に行っている」と伝えた。

両親は二重手術を勧めた。私が生まれた時から、両親は私の二重手術を望んでいた。もし私が生まれつき二重まぶただったら、当時お金のなかった両親はきっと安堵していたことだろう。

私は、まぶたに入った1本の折り目が人生に付加価値を与えると信じる国の出身だ。悲しいことに私の場合はほんの少し二重にしただけだったので、アジア人以外の友だちは手術したことを伝えるまで誰も違いに気づかなかった。

そして未だに、匿名の攻撃を受けている。私が欧米の美の基準に合わせるためにまぶたを切ったことすら分からないであろう誰かから...。

大人になった今、こうした幼少期の思い出に直面し、私は疑問を抱かずにはいられなかったーー。

「二重まぶたが美しいって、誰が決めたの?」

欧米の美の基準に適応しなくてはならない、というこのプレッシャーは、韓国人女性にとっては更に深い意味を持つ。なぜなら、この手術は朝鮮戦争中に、アメリカ軍の形成外科医によって韓国に持ち込まれ、アメリカの軍人に魅力的に映ることなどを狙って、韓国人の目を「非オリエンタル化」するために行われたのが始まりだと言われているからだ。

韓国ドラマを見たり、K-POPを聴いたりすると、画面に映る韓国人がみんな二重まぶたであることに、すぐ気づく。

人生の大部分で私はアジア人の目は「醜い」と思い込まされ、褒められても素直に受け入れることができなかった。誰かに「目がキレイだね」と言われても、からかわれているか、その人がフェチなだけだと思った。

「この目をキレイだなんて思うわけがない」

こうした気持ちがずっと続くだろうと思っていたが、11年前、大学4年生のとき、アメリカのシカゴで道を渡ろうと待っていた時にタクシーに轢かれた。ICU(集中治療室)に何週間も入院し、歩くこともできず、顔も含め全身に傷や縫った跡が無数にあった。

目の下の骨を骨折し、手術をする必要があった。医師は私に、「この骨がなかったら眼球を失っていたかもしれない。恵まれていたね」と言った。

私がずっと、「壊れている」と思い込まされていたその目自体を失うところだった。見る能力を失いかけたのだ。

今回、手術台に横たわったとき、私は恐怖と憤りを感じながら、麻酔によって意識が失われていく中で感謝の気持ちを抱いていた。

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自分の中で生まれた変化

数週間後に退院すると、母がロサンゼルスから駆けつけてくれた。ルームメイトもいる家で1カ月間共に暮らし、入浴を手伝ってくれたり料理をしてくれたり、経過観察のための診察に付き合ってくれたりと、私の世話をしてくれた。

数カ月後、私は再び歩き、学校に戻り、いつもの日常に戻った。ただ、額には大きな傷跡が残った。でもそれは、これまでのたくさんの「闘いの証」の1つとして、感謝し気に入っている。

そして、今でも目が見える。

空も太陽も山も木々も見える。前も後ろも見えるし、世界の美しさと悲しみも見える。

あの匿名のメッセージを読んだ翌日、私は孤立より繋がりを選び、心理劇療法のリトリートで悩んでいたことを共有した。みんなが私を抱きしめてくれ、私たちを分断しようとする世界や組織に対する怒りや苛立ちを叫んだ。私はアジア人と白人からなるグループの中で、認められ、理解され、支えられていると感じた。

私は自分の中の変化に気づいた。匿名でメッセージを送ってきた見知らぬ他人に、私に劣等感を抱かせ満足させるようなことはしたくなかった。

最近、鏡を見ると、日本統治下の朝鮮半島に生まれ、第二次世界大戦後に初めて自由とグローバリゼーションを味わった祖父母の姿が見える。

朝鮮戦争直後、この小さな国が共産主義と資本主義の果てしない戦いに巻き込まれた時代に生まれた両親の姿が見える。

私の祖先、家族、友人、そして私のような人間でいっぱいの国が見える。

そこには共有の人間性があり、いるべき場所の一員でありたいという切望や大切にされていているという思いがある。

私たちの物語を理解した今、そこに命を吹き込みたいと思う。

私は自分が見える。韓国系アメリカ人移民で、感謝と誇りを感じている自分。

この目はこのためにある。世界、自分自身、そしてお互いを見るために。

ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。

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