おなかの中で心疾患がわかったわが子。「どんなことがあっても育てていこう」と決意。心拍が60を切り、命の危険と隣り合わせの妊娠生活【医療的ケア児妊娠・出産体験談】

長野県安曇野市在住の仲谷さやかさん(46歳)は、息子の悠生くん(5歳)と夫と暮らす3人家族。悠生くんは先天性心疾患の合併症で気管支軟化症を患い、日常的に痰(たん)の吸引や経管栄養が必要な“医療的ケア児”です。仲谷さんは、自分と同じような境遇の家族を支援しようと考え、2022年に「ピアサポートshushu(シュシュ)」を立ち上げました。

悠生くんの子育てと医療的ケア、ピアサポートの活動に奮闘している仲谷さんに、悠生くんの妊娠や出産、産後の育児を振り返っていただきました。全2回のインタビューの1回目です。

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病気があっても育てると覚悟を決めた矢先…胎児の心拍が60を切っていた

妊娠37週4日目生まれる前日のエコー

仲谷さんは、39歳のときに1つ下の夫と結婚し、名古屋市で暮らしていました。結婚当時、お互いに子どもが欲しい気持ちはありましたが、自分たちの年齢ではむずかしいかもしれないと思っていたそうです。

「夫とは『取りあえず1年は自然に任せよう。それでも子どもができなければ、2人で仲良く人生を楽しもう』と話をしていましたが、結婚してからすぐに息子を妊娠しました。

しかし、妊娠2カ月の妊婦健診のとき、先生から『胎児の心臓に疾患があるかもしれないので、来週もう一度来てください』と言われました。突然のことで私は言葉を失ってしまいましたが、一緒に健診に来ていた夫が『もし心臓に病気が見つかった場合はどうすればいいですか?』と先生に尋ねると、『大きな病院を紹介しますので、しっかりそこでみてもらってください。仮に心臓に問題があったとしても、今は医療が進歩しているので治療できる可能性も高いですよ』と前向きな返答で、深刻な雰囲気はありませんでした。

健診後、私は居ても立ってもいられず、心臓の疾患についてネットでたくさん調べました。そして、いろいろ調べていくうちに『子どもの心疾患はじゅうぶんにあり得ることだ』と納得し、夫と『せっかく宿ってくれた命だから、どんなことがあっても2人で育てていこう』と互いの意思を確認しました」(仲谷さん)

たとえおなかの中の赤ちゃんに心疾患があっても、2人で育てていこうと決めた仲谷さん夫婦。しかし、次の健診で赤ちゃんの命が危険な状態であることを告げられました。

「心疾患があることがわかったうえに、胎児の心拍が60を切っている状態だということがわかりました。先生からは『胎児の心拍数は120~160bpmが正常の範囲といわれています。数日後には心拍が止まってしまう可能性が非常に高いです』と告げられました。しかも、生存できる確率が著しく低く、病院を紹介することもできないというのです。病気があっても育てたいという意志を固めてきたのに、まさかの余命宣告をされてしまい、崖から突き落とされたような気持ちでした。双方どうすることもできない状態になってしまい、長い沈黙が続きました。ただただおなかの赤ちゃんが今後どうなっていくか見届けることしかできない。私はショックで頭が真っ白でしたが、夫が『それでもいいから病院を紹介してもらえないか』と話してくれて、先生が近隣の大きな病院と掛け合ってくれました。私は、病院の外へ出た瞬間、体中の力がガクッと抜けて、泣き崩れたのを覚えています。

『今すぐにでも大きな病院で診てもらいたい!』とあせる気持ちとは裏腹に、紹介された病院にも『今の段階で受診しても、また同じ診断になってしまうので、9日後に来てください』と言われ、診察日までひたすら待たなければなりませんでした。9日間は恐怖と不安でいっぱいで、いつ、なにが起こるかわからない、空虚感、無力感でいっぱいでした。最初の3日間ぐらいは、寝ているか泣くかのどちらかで、食欲もなく、ほとんどの時間をベッドのなかで過ごしていました。しかし、そんな毎日を過ごしているうちに、しっかり食べて通常の生活を取り戻すことが今の自分にできることではないかと思うようになり『このままではいけない』と気づき始めました。夫は私の気持ちや状況を受け入れて、寄り添ってくれていたので、そんな夫の姿を見て、私も徐々に落ち着きを取り戻していきました。

私の気持ちがようやく落ち着いて来たころに、夫が『自分たちだけが悲劇だなんて、そんなことはないと思う。そう思うのは絶対にやめよう』と言いました。夫も落ち込んでいたし、この9日間はいろんなことを考えていたと思います。“できる限り今までどおり楽しく笑って過ごそう”と、夫婦の心がひとつになった瞬間でした」(仲谷さん)

そして9日がたち、妊娠16週目。仲谷さんはかすかな希望を抱きながら、紹介された名古屋市の病院へ足を運びました。

「産科でエコー検査をしたら『心拍は確かに遅いですが、元気に動いていますよ』と言われ、心底ホッとしたのを覚えています。やはりいつも通り笑って生活を過ごすのがいいのかなと思いました。その後、循環器内科で心エコーをして、『まだはっきりとはわからないけれど、やはり心臓に病気がありますね』と言われましたが、『むしろ心臓に負担をかけないようにゆっくり心臓が動いている可能性もある』という説明を受けました。

それからは、なるべくふつうに過ごそうと意識して生活していました。心のどこかではひやひやしながら妊娠生活を送っていましたが、一度考え出すとずっとくよくよと考え続けてしまうので、自分の心を安定させるためにはどう過ごせばいいか日々葛藤していました」(仲谷さん)

帝王切開の前日にまさかの転院。30人のスタッフに見守られながら生まれた悠生くん

生まれたばかりの悠生くん

胎動を感じる時期になってくると、胎児の心臓の状態も徐々にわかってきました。

「先生には『とても複雑な心臓病もいくつか持っています。心拍が60ぐらいの赤ちゃんが生存できているのは、今まで自分が見てきた中では見たことがない珍しい症例です』と言われました。そして、複数の先生が集まってカンファレンスを開いてくださった結果、心臓が肥大していて厳しい状態のため、その病院での介入は難しいことや、生まれたらすぐに県外の病院に救急搬送する可能性があることを告げられました。またしても“生まれたあとはどうなるかわからない”という厳しい状況に追い込まれてショックでしたが、私は『子どもが救われればなんでもいい』と県外の病院に救急搬送してもらう覚悟を決めました」(仲谷さん)

妊娠34週で帝王切開をすることが決まっていた仲谷さん。しかし、帝王切開予定日の前日に突然、静岡のこども病院へ転院することになりました。

「生まれてからの救急搬送では救命ができないと判断され、早急に静岡の病院で胎児の状態を把握したいとのことでした。ちょうどそのとき、実母が名古屋の病院に向かっている最中だったので、私たちは大慌て(笑)!実母に状況を説明し、わずか1日で転院先の環境を整えるのが本当に大変でした。けれども、私は生まれたあとの子どものことが心配だったので、転院することで少しでも状況がよくなるのではないかとかすかな望みを抱いていました。

転院先で胎児エコー専門の先生に診てもらうと、『今出産しても救命がむずかしいので、38週までおなかの中で育てて、胎児の肺をしっかり成熟させることが大事です。それが救命できるかできないかの大きな分かれ道になります』と言われました。『あと4週間も!?』と内心驚きましたが、先生の話に納得し、約1カ月妊娠生活を引き延ばすことになりました。

入院中は頻繁にモニターをしていたので、胎児の心拍が下がってくるのがわかると、いつも鬱々(うつうつ)とした気分になっていました。モニターがつらくて、泣きながら夫に電話することもありましたが、赤ちゃんのために病院の先生や看護師さんたちが必死に頑張ってくれていることが伝わってきて『くよくよしていたらいけない!』と自分を奮い立たせていました」(仲谷さん)

そして、妊娠38週。30名ほどのスタッフが見守る中で帝王切開をすることになりました。たくさんのスタッフが一丸となって悠生くんを救おうとしてくれている姿に、仲谷さんも励まされる気持ちだったそうです。

「おなかから取り出したときに、息子が泣いたんです。『泣いてくれたってことは肺が成熟しているということだ!』と私はうれしくなりました。先生たちの処置も落ち着いていたので、息子の状態はそこまで悪くはないかもしれないと希望を持ちました。

すると先生が『今、生まれました。予想していた状態より非常にいい状態です。これから精密検査に入りますので、顔だけ見ましょう』と言って、息子をそばに寄せてくれました。息子に触れた瞬間、本当にうれしい気持ちでいっぱいでした。このとき、“この子はきっと大丈夫”という根拠のない自信が生まれました」(仲谷さん)

“気管支軟化症”生後3カ月で気管切開を決断。地元の長野へ移住

CCU入院中の生後12日目の悠生くん

産後、無事に退院した仲谷さんは、入院している悠生くんの面会に毎日足を運びました。

「その病院は基本的に付き添い入院が認められなかったため、私は静岡市内にマンスリーマンションを借りて、1日1回息子に会いに行くという生活をしていました。息子はCCU(循環器疾患集中治療室)で過ごしていたので、オムツ替え・沐浴(もくよく)などもできず、私はただそばで意識のない息子の顔をずっと見ているだけでした。産後でホルモンバランスが崩れていたせいもあって、息子に何もしてあげられていないという無力感が強かったです。唯一息子にしてあげられることが、さく乳した母乳を持って行くことだったのですが、それも余ってしまう状態で、母乳を捨てている瞬間はとても切なかったです。

息子は生後2日にオペをしてから容体が安定していましたが、生後2カ月を過ぎたころからまた容体が悪くなってきました。生まれたときから“気管支軟化症”を患っていて、それが原因で呼吸状態が安定しませんでした。気管切開をして人工呼吸器を装着する選択もありましたが、病院側はそれが家族にとって大きな選択になることがわかっていたので、できる限り気管切開をしないで治療をしていました。しかし、息子の容体は一向に安定せず、気管挿管しているので動くことを抑制されて寝たきりの状態。息子は、調子がいいとよく動き、表情も豊かで、活発な子だなあと思っていたので、『このままの状態が本当にこの子にとっていいのか』と考えるようになり、3カ月たったころに『気管切開をしたい』と申し出ました。このときから、人工呼吸器を装着する生活がスタートしました。気管切開をしたら、みるみるうちに呼吸状態がよくなり、少しずつ笑うようになったり、活発に動くようになりました。

静岡にいる約7カ月間はほとんど、息子の面会に行くだけの生活をしていました。夫が『たまには買い物などをして自分の時間を作ってみては?』と提案してくれるので、気晴らしにと思いショッピングモールに行ったこともありました。けれども、家族連れで賑(にぎ)わっているショッピングモールを見て『あれ?私も赤ちゃんを産んだはずなのに、なんでこんなところで1人で買い物をしているんだろう…』と虚無感に襲われてしまって、うまく気晴らしができませんでした」(仲谷さん)

仲谷さんと悠生くん

長い入院生活の中で、徐々に容体が安定してきた悠生くん。今度は、どこで、どうやって悠生くんと一緒に暮らしていくのかを考えていかなければなりませんでした。

「当時私たちが住んでいたのは名古屋市で、それぞれの実家から離れた場所でした。おそらく今後は夫婦2人だけではなく、親族のサポートも必要になるだろうと考えていました。そんなときに義父から、私の地元の長野県にある『長野県立こども病院』の存在を教えてもらいました。長野へのUターンも視野に入れていたので、早速『長野県立こども病院はどうですか?』と先生に訪ねてみると、偶然長野県立こども病院の循環器の先生が研修に来ているというのでびっくり…!すぐにその先生に診てもらえたおかげで、スムーズに話が進み、長野県立こども病院への転院が無事に決まりました」

医療的ケア生活。アラームの音で眠れない日々が続き、メンタルが不安定に

退院後間もないころ、1歳の悠生くん

まずは、生後8カ月の悠生くんと仲谷さんの2人で長野県安曇野市へ移住することに。悠生くんは体調を安定させるために3カ月ほど長野県立こども病院に入院したあと、長野の自宅で親子の生活がスタートしました。

「長野で2人の生活が始まり、24時間人工呼吸器を装着し、経管栄養をする、医療的ケアが始まりました。夜中じゅう、呼吸器のアラームが鳴ったり、数時間ごとに経管栄養を注入したり、泣いている息子に起こされたりして、とにかく寝られないことがつらかったです。いまだにそうなんですが、寝ている最中も神経が過敏になっているので、息子がちょっとでも動くとパッと目が覚めてしまいます。息子の場合は吐き戻しやすかったので、そのたびに『体重が増えないのではないか』と心配でした。(体重を増やさないとできない心臓の手術がたくさんあったので)また、実母にもたくさんサポートしてもらっていたので、この年になってもまだ母に迷惑をかけているという負い目も感じていました。

寝ていないので精神的に参ってしまい、冷静に考えれば思いつめることではないことも、複雑に頭の中を駆け巡っていました。医療的ケアはやればやるほど慣れていきましたが、自分のメンタルのコントロールがいちばんむずかしかったです。私はカウンセリングの資格を持っていて、そのおかげでこれまでなんとか自分を維持できていたのですが、息子との生活が始まった瞬間に、それが一気に崩れていくのを感じました。

メンタル的にしんどいと感じていても、地域にはメンタル面の相談を気軽にできる場所がありませんでした。たくさんの方にサポートしてもらっていることは理解しています。だからこそ、自分の中にある思いや胸の内が表出できる場所がないという苦しさが募っていきました。本当に自分が感じている思いがあっても、身近は人には『こんなこと言えない』『言っちゃいけない』と気持ちに歯止めがかかり、蓄積してしまうことが健康的ではないと感じていました。聞いてもらうだけでもいいし、『そういう気持ちあるよね。わかる』と共感してもらえることも大切だと思います。『解決してもらいたい』のではなく、自分の抱えている思いをただただ表出できる場所があるべきだなと思ったことが“ピアサポートshushu”を始めるきっかけとなりました」(仲谷さん)

お話・写真提供/仲谷さやかさん 取材・文/清川優美、たまひよONLINE編集部

▶続きを読む【第2回】「息子の医療的ケアは私が全部できればいい」と思っていた。自身の乳がんの再検査をきっかけに、母子分離を考えるように【体験談】

悠生くんは、仲谷さんのおなかの中にいるころに心疾患が見つかり、常に命の危険と隣り合わせでした。生まれたあとも、約1年間に及ぶ長い入院生活を送り、ようやく自宅で生活できるようになりました。しかし、仲谷さんは悠生くんの医療的ケアで眠れない日々を過ごし、やり場のないつらい思いを抱えていました。この経験が「ピアサポートshushu」を立ち上げる大きな契機となりました。

2本目のインタビューでは、悠生くんが幼稚園に入園したきっかけや、悠生くんの近況、「ピアサポートshushu」の活動についてお話を聞きました。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることをめざしてさまざまな課題を取材し、発信していきます。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年6月の情報で、現在と異なる場合があります。

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