川底に眠っていた都市遺跡に見る大運河の変遷 中国江蘇省

川底に眠っていた都市遺跡に見る大運河の変遷 中国江蘇省

泗州城遺跡の一角。(淮安=新華社配信/周海軍)

 【新華社南京7月8日】数百年前の洪水に飲み込まれ、そのまま泥に埋もれた町が2023年末、考古学発掘調査によって再び人々の前に姿を現した。

 住居跡34軒、道路8本、かまど跡10カ所、排水溝13本、陶磁器や木器、金属器など器物370点…。中国江蘇省淮安市淮安区で見つかったこの町は新路遺跡と呼ばれる。

 淮安市文物保護・考古研究所の胡兵(こ・へい)所長によると、新路遺跡は明代後期の典型的な街並みの跡で、京杭大運河(北京-杭州間の運河)沿線の町が持つ生活の活気と商業の繁栄を伝えている。

 発掘エリアを貫く幅約4メートルの大通りが最も重要な発見とされ、両側の排水溝や側道とともに幹線道路をなし、全ての住居跡がこの道の南北両側に整然と並んでいた。史料や出土品を照合した結果、この道は史料に記載のある明万暦年間(1573~1620年)の陳公新路ではないかと推測される。

川底に眠っていた都市遺跡に見る大運河の変遷 中国江蘇省

新路遺跡の層序。(淮安=新華社配信)

 新路遺跡の発見に先立ち、同市では大運河沿いに大規模な都市遺跡が2カ所見つかっている。いずれも川底に埋もれていたが保存状態は良かった。

 一つは淮安区の板閘(ばんこう)遺跡で、中国唯一の川底に板を敷き詰めた閘門遺跡となる。同遺跡により明代の閘門と付属施設の様子が明らかになり、水門や旧河道、船着き場、堤、土手などの遺構も見つかった。

 もう一つは泗州城(ししゅうじょう)遺跡で盱眙(くい)県にある。イタリアのポンペイ遺跡は火山灰に埋もれた都市遺跡だが、泗州城は中国で唯一、町全体が水没した都市遺跡として知られる。

 泗州城の築城は南北朝時代の北周王朝期(557~581年)にさかのぼり、隋代の戦乱で破壊されたが唐代に再建された。唐から明にかけては商船や貨物船が行き交う水運の要衝として「水陸の都」と呼ばれ、千年近く栄えたが、清の康熙19(1680)年に数十日降り続いた大雨で水没した。

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新路遺跡の発掘エリア。(淮安=新華社配信)

 淮安でなぜ3カ所の水没都市遺構が見つかったのか。中国水利協会の水利史・水利遺産専門委員会会員、淮安市政协特任文史(文学・歴史)専門家の戴甫青(たい・ほせい)氏は「新路、板閘、泗州城の3遺跡は淮安で頻繁に起きた洪水の一面を示している」と指摘。淮安は大運河と淮河の交差する地点にあり運河により栄えたが、南宋時代に黄河が淮河経由で海に注ぐ河道に変わり、清の咸豊年間に再び河道を変えるまでの約600年は黄河と淮河、大運河が交差し、黄河がもたらす大量の土砂により水路網と水系が頻繁にふさがるようになったと説明した。

 明清時代には水運確保のために堤防や水門、堤などが建設され、水運を管理する漕運(そううん)総督と治水を担う河道総督も置かれたが、黄河の大量の土砂や淮河上流の増水、梅雨の影響が重なることで淮安では洪水が絶えなかった。

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新路遺跡の道路遺構の下で見つかった別の時代の道路遺構。(淮安=新華社配信)

 運河沿いに栄えた町は歴史の中で水に飲まれ、泥に沈んだが、大運河沿いの発掘調査が近年進むにつれて次々と姿を現すようになった。これらの遺跡は現代のわれわれが往時の大運河沿線の人々の暮らしを想像する助けとなり、大運河の歴史をより生き生きとさせている。(記者/蔣芳、邱冰清)

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