子供に相談されたらどうすればいい? 保育者が思う『大人のサポート』とは

X(Twitter)やnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。

連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒す文章をお届けします。

第25回『なあなあ、なんもない』

「なあなあー」と呼ばれて側に寄ると、「ここわからへんー」と宿題の設問を指差しながらうなだれている。どれだけ考えてもわからないからというよりは、めんどくさくてうんざりしているように見える。

「どれどれ、文章問題か、読んでみてくれる?」と声をかける。「え〜もう読んだって〜」と言いながらも声に出して読み始めると、途中で、「あ、わかった!」とひらめいた様子を見せる。

「お、わかった?」と反応すると、何がわかったのか教えてくれることなく「もう大丈夫!」と返してくる。「いやいや、教えるよ!」とあえてしつこく絡むと「大丈夫やから!言わんといて!あっちいって!」と言われ、その場から離れる。

はたから見たら「聞いておいてなんて失礼な態度だ」と思われるかもしれないけれど、僕はこんなやりとりが好きだったりする。

困ったら声をかけてくれる。僕は何かを教えたり与えたりするわけでなく、その子が自分のこととして取り組むための、いわばその子が助走つけて走り出すまでの、小さな支えとなれている気がする。

自分で考えさせよう、というような意図はない。わからないままだったら言われた通りに教えるし、答えがわからなかったら正解を伝えることもある。

手を貸して欲しいと相談してきたのに、手伝おうとすると「自分でできそうやから手出さんといて!」となるのは、理不尽だし、その子にとっては「いいように使っている」のかもしれない。けれど、その子が“自分のこと”として取り組むための工夫なら、それでもいいんじゃないかなと思う。

大人同士の関係だって、相談したつもりがただの愚痴の捌け口にしてしまっていることがある。それでいい関係もあれば、それはイヤだなと伝えて関係を改めることもある。

物みたいに扱われたら、素直に「助けたい気持ちはあるけれど、物のような扱いをされたらイヤだよ」と伝えればいい。ひとりの人として、僕ができることをする。できるならできるし、できないならできない。

プレッシャーがあったほうが頑張れるから、という本人からの要望で横に座って見張る役をやったこともある。僕から名乗り出たわけではない。呼ばれていくと宿題をしていて、わからないところがあるのかと尋ねると「ちょっとここに座っといてくれへん?」とお願いされた。

僕もひとりで自宅で仕事をしているより、誰かがいる空間の方がサボらずにできるから気持ちはわかる。

「仕事しながらでもいい?」と聞いて了承してくれる時もあれば、「集中して見ていてほしいと」お願いされることもある。丁重にお断りすることもあるけれど、言われた通り集中して見張りをする時もある。

時には、宿題をする時間にお知らせをするリマインダーになることもある。これは僕が言い出した。

「そろそろ宿題したほうがいいんじゃない?」と僕が言い出すと、宿題をやらされている感覚になるようで不機嫌になる。その子のために声をかけたのに鬱陶しそうな態度をとられると気分も悪い。だから、リマインダーになることにした。

もし忘れそうなら声をかけようか?と、あくまでもその子が必要なら、という前提で話をする。リマインドなので、宿題をやらなきゃダメだよという雰囲気は出さず、その子が思い出すために声をかける。「やるもやらないもあなた次第」と責任を丸投げするためのものではなく、あくまでも自分のこととして取り組めるように。

だから、もちろんスヌーズ機能も搭載している。約束したやろ、とは言わず、また何時ごろに声をかけようか、と話をしつつ、「それじゃお迎えに間に合わんのちゃう?」とちょっとだけ口出しする。

たまにスマホでもこちらが設定してないのに勝手に「最近朝のこの時間にこれしてるみたいやけど今日はええのん?」とか、「このメール返信し忘れてへん?」と知らせてくれることがある。あんな感じだ。

「いちいちうるさいな」と思うこともあれば、「おおー、よお言うてくれた!助かった!」となることもある。

「先週よりも運動してないみたいでっせ」という通知なんか、「大きなお世話や!」と思いながらも「ちょっと歩いとこかな」となるし、歩く選択をした自分を褒める。これが「はよ歩きに行きや!なにしてんの、まだダラダラしてんのん」と言われたらやる気はなくすし、もしそれで散歩に出かけてもやらされている感が出るもんね。

辞書の代わりになることもある。答えを教えるのかって思われるかもしれないけれど、その子の学ぶ機会を奪っていないのなら、そんな時もあっていいんじゃないかなって思う。

その子にとって「自分で調べる」の第一歩が「誰かに聞く」なら素晴らしいことだし、「あの時あいつに教えてもらった漢字や」って思い出せしてもらえるのなら、それもいいじゃない。

その子の特別な何かになりたいわけではない。困った時に相談したら応えようとしてくれる人がいるということを、それが僕ではなくても、この世界には自分の言葉に耳を傾けてくれる人がいるということを感じてもらえたらと思う。

そのうえで、自分で工夫することを身につけていけばいいよね。

「なあなあ」と子どもが声をかけてきた時に、手を離せないので「ちょっと待ってね」とお願いすることがある。

しばらくしてから、「さっきはごめんね、どうしたの?」と声をかけると、「なにが?」と返される。「なにか相談しようとしてた?」と聞くと、「ああ、もう大丈夫」と素っ気なく返事をされる。

他の誰かに相談した様子はなく、かといって自分で解決したわけでもなさそうで、深刻な悩みでなければいいけれど、と思いながら、「また何かあったら言ってね」とお守りを渡すつもりで声をかけて離れる。

子どもたちとの生活の中ではこのような場面は日常茶飯事で、その度に「大丈夫ならいいか」という気持ちと、相談してきた“その時”に応えられなかった申し訳なさを感じる。

「相談したけど自分でいけそうかも」というのと、「相談しても答えてくれないからもういいや」は、違うから。

解決しないとどうしても進めないことなら、しつこくでも相談するかもしれないけれど、暮らしの中ではどちらかというと、誰かに聞いてもらえたらありがたいけれど、相談できないままどうにか進むしかないことの方が多かったりする。

“その時”に相談してみようと思ったことも、そのタイミングを逃すと「もう大丈夫」になってしまう。大丈夫じゃないけれど、大丈夫ということにして進む。

特に子どもは、“いま”を生きていて、考えも思いも次々に進んでいくから、その時を逃したら僕たち大人はあっという間に「もうええわ」と置いていかれる。

そこまで尾を引いていないなら大した悩みではなかったのだと思いたいけれど、悩んだまま進むことにしたのかもしれないし、「こいつに言っても仕方がない」と思われているかもしれない。

それが積み重なって「どうせ聞いてもらえないし」と相談すらしてくれなくなるのではないかと不安になる。

しばらく経ってから、「なあなあ、これな」と、声をかけてきてくれた。今回は聞き逃すまいと耳を傾ける。「ここを、こうやって、こうしてみてん」と、工作物を手先で器用に動かして見せてくれる。

「これ考えて作ったん?すごいな」と、煽てるわけでもさっきの穴埋めのためでもなく、素直な思いを言葉にして伝える。

失望させたわけではなかった安堵とその子の工夫に嬉しくなり、「ここをこうしたら、さらによくなるんじゃないかな」というアドバイスをしそうになり、慌てて口をつぐむ。

“その時”に応えられなかったのに今さら口を出しては、その子自身にケチをつけることになるかもしれない。またその子から、もっといい方法はないかと相談されたら、その時に答えよう。

「僕がいなくても自分で工夫できたんやね」と声をかけたものの、それもまた、相談に応えられなかった自分を正当化しているみたいに感じて、「相談してくれたのに聞けなくてごめんね、またいつでも言ってね」と改めて言葉にする。

この連載をゆったりペースでさせてもらいながら、番外編としてお悩み相談のような企画をはじめた。

すべての人の悩みに応えられるわけではないし、ましてや僕なんかが解決できることなんかないけれど、同じような悩みを持っている人がいることを知れたり、その悩みについての一つの視点を綴ることで誰かの何かの役に立ててもらえたりできるかもという思いでいた。

しかしながら、いくつかの相談には返すことができたけれど、すぐに難しくなっていった。一つひとつの悩みを受けて、それに返すときに僕は価値があることが言えるような傲慢さが顔を出し、いちいちその勘違いに向き合わなければならなかった。

この視点が何かの助けになるかもしれないと思っても、自分には見えていないことがあるんじゃないか、誤ってその人を傷つける刃となるのではないかと悩む。

当然のことながら、僕から見たものしか語れないしそれを承知で寄せてくれている悩みなんだから率直に思ったことを書けばいいのだろうけれど、それが難しく、次第にその悩みに返す“その時”を逃したような気持ちになり、書いては消すということを繰り返した。

「相談を聞きますよ、悩みに返しますよ」と言われたから相談したのに、それが返ってこないのは、聞いてもらえるかわからない中で一方的に相談して返答がない時よりもショックは大きいだろう。

ましてや気軽に相談したわけではなく、悩んだ末の相談ならなおのこと、僕に対して「どうせ言っても」と失望するだけならまだいいけれど、取るに足らない相談なのだと感じさせてしまって他の人に相談することもできなくなるかもしれない。取るに足らない相談など、一つとして無いのに。

必ず返せるという保証もないのに簡単に「相談を聞きます」などと言ってはいけなかったのだと今になって思う。相談を寄せてくれたのに返せなかった方に届くかわからないけれど、ここでお詫びさせてください。ごめんなさい。

余談ですが

公園で、「なあなあ、ちょっときてー」と呼ばれて「どないしたん〜」とかけ寄りその子の横へ立つと、「手貸して」と言われるので、「あとで返してな」と腕を出す。

差し出した手ではなく、二の腕のあたりを掴まれる。

もう片方の手にある一輪車の車輪を地面に当ててペダルの位置を調整する。下に来たペダルに片方の足をかけ、「ほ!」っと勢いをつけてサドルに飛び乗り、もう片方の足をもう片方のペダルに乗せる。

二の腕に小さな負荷がかかる。

バランスをとるようにクネクネと車体を前後させたのも束の間、フッと二の腕が軽くなる。

「絶対に放さんといてな」と言われながら手を力いっぱい握られ、ゆっくりゆっくり進んでいたときのことを思い出す。たった数ヶ月前のことだ。もうすぐ乗る時の支えもいらなくなる。

僕がいなければ鉄棒なり街灯のポールなり使うだろう。それでも呼んでくれたなら必要としてくれた時くらいは喜んで鉄棒の代わりくらいにはなる。

すーっと一輪車を漕いで離れていく背中に向かって、半ば事務的に「それだけかいー」と声をかける。

こちらには振り向かず、笑い声とともに片手を振ってくれる。その子なりにありがとうと言っているのだろうか。いや、ただ転ばないように手を振っているだけかもな。


[文・構成/きしもとたかひろ]

きしもとたかひろ

兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。SNSアカウントやnoteに投稿している。
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