高野街道がひとつになる街道の要衝で温泉街としてもにぎわった「奥河内」【近鉄長野線(河内長野市編)】

汐ノ宮駅を出発した長野線車両

■近鉄長野線という路線名の由来

関東の鉄道路線名は、東京の新宿と八王子を結ぶ京王線、埼玉県の大宮と東京の大崎を結ぶ埼京線のように起点と終点の地名に由来するものが多い。一方の関西は、南海高野線や阪急京都線、近鉄奈良線のように終点の地名から名付けられる路線が多い。近鉄長野線も例外ではなく、名前の由来は終点の河内長野駅による。

河内長野駅は、1898年に高野鉄道(現 南海高野線)の終着駅として開業。当時の駅名は長野駅で、1902年に河南鉄道が滝谷不動駅から延伸して終着駅としたときも駅名は同じだった。河内長野駅に改称されたのは、河内長野市が成立した1954年。路線名はそのまま残されたのだ。

その名残が電車の行き先表示にある。長野行の電車には、いまも「河内長野」ではなく「長野」と表示される車両があるのだ。もちろん長野県の「長野駅」へ向かうわけではない。

■温泉街の最寄り駅だった汐ノ宮駅

河内長野は「奥河内」ともいわれ、南河内の最南端に位置する。そして河内長野は、高野山へ向かう街道の要衝でもあった。

それを詳しく説明する前に、まずは汐ノ宮駅から。

滝谷不動を出ると、次の駅が汐ノ宮。とんがり屋根の駅舎が特徴だ。

周囲は山を切り開いた住宅地だが、開発前は山林のなかにポツンと位置する素朴な風情があった。そして、この汐ノ宮駅は、かつて温泉街の最寄り駅としてにぎわっていたのだ。

汐ノ宮駅近くの汐ノ宮温泉は、河内長野市と和歌山県の境を源流とする石川沿いに位置していた。旅館が数件建ち並ぶ温泉街でもあったが、次々に廃業。現在は鉱泉を利用した温泉研修センターを残すのみとなっている。

汐ノ宮に温泉が噴出したのは、1600万年前に活動した火山があったからだ。火山活動で噴き出た溶岩が冷え固まって露頭となり、柱状節理という六角柱の岩肌が形成される。その様子は、温泉研修センター裏の石川河畔で見ることができる。

■東西高野街道の合流地点である河内長野

汐ノ宮駅の次が、長野線の終点である河内長野駅だ。駅は南海高野線と共用だが、改札は別になっている。そして河内長野は、高野街道が1本にまとまる地でもある。

高野山への参拝道は、京都の八幡市を起点とする東高野街道、堺市が起点の西高野街道、平野からの中高野街道、四天王寺起点の下高野街道の4ルートがある。下高野街道は大阪狭山市で、中高野街道は河内長野市内で西高野街道と合流。そして東西の高野街道が合流するのが、河内長野駅前にある商店街の入り口だ。

4つのルートをたどってきた人の波が1か所に集まってから高野山を目指すわけだから、かつての河内長野は大勢の参拝客でにぎわっていた。街道沿いには宿場町も開かれ、いまも三日市町地区には江戸時代の様子を伝える古民家が残されている。

宿場町としての活況は失われたものの、旧街道沿いには酒蔵通りというエリアがあり、古い建物が並んでいる。通りの名の由来は、街道沿いで1718年に創業された西條酒造からである。

西條酒造の酒蔵と酒蔵通り

また、汐ノ宮同様、河内長野は温泉街でもあった。河内長野駅から徒歩約10分の石川沿いに長野温泉街があり、最盛期には7軒の温泉宿が営業。現在、営業している温泉旅館は1軒だけだが、いまも料理旅館や旅館だったであろう建物などで当時の様子を伺い知ることはできる。

旧温泉街へ通じる黄金橋

路線沿いの多くは郊外型の新興住宅地であるものの、古墳の町から寺内町、元温泉街や街道の要衝と、同じ南河内でも異なる表情を見せてくれる長野沿線。独自の特徴を持つ町の風景と風情が、じっくりと楽しめる沿線であることは間違いない。

© 株式会社双葉社