笠原文右衛門 放水路「新堀川」の開削に尽力 子孫や郷土史友の会会員ら 顕彰碑の移設祝う 大潟区瑞天寺

笠原家の子孫や郷土史友の会おおがたの会員らが笠原文右衛門の顕彰碑(高さ153センチ、幅63センチ)の移設を祝った

放水路「新堀川」の開削に尽力、功績を残した笠原文右衛門(かさはら・ぶんえもん、1800~1873年)の顕彰碑の移設を祝う会が8日、大潟区蜘ケ池の瑞天寺で開かれた。

笠原文右衛門は江戸時代後期に現在の大潟区潟田に生まれ、江戸で儒教や歴史を学び、学者となった。「新堀川」の掘削事業に貢献し、水難に200年間苦しんだ大潟の農民を救ったとされる。

明治期には笠原家により、区内の瑞天寺に顕彰碑が建立。文右衛門の墓を含む五基の同家の墓が寺に残されていた。

管理の難しさにより撤去を検討していたが、地域の歴史を学び発信する団体「郷土史友の会おおがた」(小山將(ただし)会長)の会員や郷土史研究家の川上達也さんらが顕彰碑の保存を要望。同会は石碑を他所へ移転する案を示し、同家が快諾した。

地元の建設会社により、墓の一部は夷浜の信光寺に移されたほか、瑞天寺高台の観音山から御堂の脇へ顕彰碑移設が行われ、誰でも自由に見学できるようになった。墓碑には勝海舟筆で「大川笠原君墓碣銘」と記されている。

同会の小山会長(79)は「大潟で生まれ育った身として文右衛門さんの多くの実績を後世に語り継いでいきたい。そのシンボルとして顕彰碑を活用できれば」と話した。

笠原家の子孫に当たるシンガポール在住の笠原慶子さん(65)、良男さん(64)夫妻と千葉県在住の長男、正基さん(28)が来越し、顕彰碑の移設を祝った。

慶子さんは「墓碑を残したいという気持ちはあったが、管理が負担になるのではと思い、撤去を考えていた。実際に移設が行われ、まだ夢を見ているよう。皆さんのおかげで先祖の思いを残すことができた」と涙を浮かべながら話した。

勝海舟筆の笠原家墓碑(出典・大潟町史 自然編歴史編772ページ)

© 株式会社上越タイムス社