『アイム・ノット・ゼア』“俺はそこにはいない”ディランであってもディランではない

『アイム・ノット・ゼア』あらすじ

詩人、無法者(アウトロー)、映画スター、革命家、放浪者、ロックスター。ギターを抱えて貨物列車に飛び乗り、放浪の旅に出た黒人少年ウディ。NYのグリニッチ・ヴィレッジに忽然と現われ、社会派フォークの世界に新風を吹き込むことになったジャック。フォークの世界から決別してロックの革命児へと変貌を遂げ、従来のファンから「裏切り者!」と罵声を浴びることになったジュード…。実在のボブ・ディランのさまざまな人格を投影したそれぞれ名前も年齢も異なる6人のディラン。やがて明らかになる謎に包まれた伝説のアーティスト、ボブ・ディランの実像とは…。

ボブ・ディランが初めて公認した“伝記”


アカデミー脚本賞にノミネートされた新作『メイ・ディセンバー ゆれる真実』(23)も好評を博している鬼才トッド・ヘインズ。独特の冷徹な視点で人間を見つめ、観客の内面に踏み込んでいく彼の姿勢は新作でも健在。デビュー作『ポイズン』(91)以来、ハリウッドのメジャースタジオが避けて通るようなダークな題材を取り上げ、社会の本質に迫ってきたヘインズ。そういう意味でも、彼の作品は挑戦的だ。

ヘインズはここまで10本の長編を監督してきたが、とりわけ挑戦的な作品となったのが2007年の『アイム・ノット・ゼア』。現在も現役で活動を続ける“生ける伝説”というべきミュージシャン、ボブ・ディランの半生を題材に取った作品だ。が、単なる伝記映画ではない。ボブ・ディランという人物は登場せず、その分身といえる6人のドラマをとおしてディランを語る試みである。

『アイム・ノット・ゼア』(c)Photofest / Getty Images

そもそも、ディランの映画を撮ること自体ハードルは高い。1960年代にフォークソングの寵児として人気を博し、アーティストとしてはもちろん詩人としても広く認められ、この映画がつくられた後にはノーベル文学賞を受賞したほどのカリスマだ。実際、ディランの人生を題材にした映画はこれまで数多く企画されてきたが、ディラン自身はドキュメンタリーを除いて首を縦に振らなかった。そんな中で、『アイム・ノット・ゼア』はディランが初めて公認した劇映画となったのだ。

ヘインズはディランのマネージャーにまずアプローチし、協力を取りつけた。ディラン側の要望は、“天才”“現代を代表するミュージシャン”というような形容をするのは止めて欲しいとのこと。そのうえで、ヘインズは企画書と過去の監督作をディランに送った。彼からの返事は「イエス」。「信じられなかった」とヘインズは振り返る。そういう意味では奇跡ともいえるこの映画について、語ってみよう。

6人が演じたディランの分身


先にも述べたとおり、本作の主人公は6人のディランの分身。詩人、預言者、無法者、ニセ者、エレキギターのスター、そしてロックンロールの殉教者。演じるのはそれぞれ異なる役者で、順にベン・ウィショー、クリスチャン・ベイル、リチャード・ギア、マーカス・カール・フランクリン、ヒース・レジャー、ケイト・ブランシェット。錚々たる顔ぶれだ。唯一の女優ブランシェットは、本作の演技でヴェネツィア国際映画祭女優賞を受賞した。

まずは6人のドラマを、それぞれ解説しておきたい。少々長くなるが、ご容赦を。まずは“詩人”その名もアルチュール・ランボー。ディランが影響を受けた19世紀フランスの詩人と同じ名を持つこの男は、公聴会のような場で観客に向かって語りかける。いわばディランの精神を伝えるキャラクター。彼の言葉は随所に挿入される。

『アイム・ノット・ゼア』(c)Photofest / Getty Images

続いての“預言者”ジャックは60年代初期にニューヨークで歌い始めたプロテストシンガー。ディランと同様に、女性シンガーソングライター、アリス(モデルは実在のアーティスト、ジョーン・バエズ。演じるはヘインズ作品の常連ジュリアン・ムーア)の協力を得て、現状に不満を抱く若者の熱烈な支持を得た。ところが、ある事件をきっかけに、彼は音楽シーンから姿を消してしまう。

そのジャックの伝記映画で主演を務めることになった俳優が、“エレキギターのスター”ロビー。本作への出演でスターとなった彼は多忙を極めるが。その一方で、愛妻クレア(シャルロット・ゲンズブール)との関係は冷えていく。これは元恋人や元妻とディランとの関係をヒントにした逸話だ。

“ファシストを殺すマシン”を持つ少年


“無法者”のビリーはアメリカ西部開拓史の時代を生きるアウトロー。ハイウェイ建設のために立ち退きを余儀なくされ、住民たちが次々とみずから命を断っている田舎町で、彼は抗議の声を上げる。彼の名前ビリーとは、西部劇の英雄のひとりであるビリー・ザ・キッドから。ディランが映画初出演を果たすと同時に音楽も手がけた巨匠サム・ペキンパーの『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(73)とリンクする。

“ニセ者”ことウディ・ガスリーは11歳の黒人少年で、“ファシストを殺すマシン”と書かれたギターケースを手に貨物列車で放浪している。その名前は、ディランも憧れていた伝説のフォークシンガー、ウディ・ガスリーから取られており、彼のギターケースには同じ文句が書かれていた。もとい、本作のウディはギターと歌の腕に優れており、それを生かして行く先々で大ぼらを吹いては窮地を乗り切り、当てのない旅を続けている。

『アイム・ノット・ゼア』(c)Photofest / Getty Images

そして“ロックンロールの殉教者”は、60年代半ばのディランそのものの容姿で現われるロックンロールスターのジュード。渡英してツアーを敢行した彼はメディアに追いかけられ、ビートルズのメンバーと戯れ、パーティでは過労で倒れ、ステージではフォークを捨ててエレクトリックサウンドに転向した裏切り者として激しい罵声を浴びる。その後、オートバイ事故に遭うのだが、これもディラン本人の体験を反映。

彼ら6人の物語が交錯し、つながりを持ちながら展開。6人が生きている時代も異なるので、19世紀から20世紀へ、またはその逆と奔放に飛び交う。 “ディランの人生と作品を通過して、別々の人格を浮かび上がらせ、それぞれを物語に仕立てること。それはディランの人生の真実を表現する、たったひとつの手段だった”とヘインズは語る。

観る者の思考を刺激する挑戦的なつくり


この物語をとおして、まずディランが人々にどう受け止められてきたのかが見えてくる。反体制の闘志、音楽界のカリスマ、天才的な詩人、皮肉屋、裏切り者……1960年代はカウンターカルチャーがアメリカを動かした激動の時期であり、ディランのとらえ方も時期や人によって異なる。泥沼化したベトナム戦争のニュース映像がしばしば挿入されるが、それは時代のカオスをよく表わしている。ディランだけではない。理想を抱く者なら誰でも、闘うのが難しい時代だったのだ。

本作にはセリフが多いが、ディランの思想もそこには宿る。「言葉を書かなくても詩人だ。ガソリンスタンドの店員も、靴みがきも」「歌で世の中が変わるなんて思っていない」「音楽をどんな名前で呼ぶかなんてどうでもいい」などなど、思索的な台詞に富んでいる。面白いのは、見進めるほどそれらが観客の心の中に浸透し、思考を促していくことだ。社会とは何か? その中で人は何ができるのか? 何ができなくて、人は苦しむのか?

『アイム・ノット・ゼア』(c)Photofest / Getty Images

考えるヒントは劇中にフィーチャーされたディランの多くの楽曲にも隠されている。本作ではディラン自身のナンバーはもちろん、別アーティストによる彼の曲のカバーもある。膨大な数のディランの楽曲の中で、ヘインズ監督は物語性のあるものを選んだという。「やせっぽちのバラッド」や「運命のひとひねり」など、映画の内容に直接関わってくるナンバーは痛烈だ。

考え続ける生きものーー人間の多面性を問う


このように本作には、とにかく情報量が多い。6人のディランの物語というだけでもそれはうかがえるが、そこには反戦、ジェンダー、権力による搾取、格差など、さまざまな要素が含まれている。映像的にもカットの切り替わりが早く、そこから伝わるものは多い。誤解を恐れずにいえば、映画そのものが良い意味でカオスだ。

興味深いのは、こんなカオスの中で、本作は“アイム・ノット・ゼア”――“俺はそこにはいない”と宣言すること。6人はディランであってもディランではない。人々はディランをとらえ、レッテルを貼るが、正解はない。言うまでもなく、“天才”でも“現代を代表するミュージシャン”でもない。

『アイム・ノット・ゼア』(c)Photofest / Getty Images

人間は決して一面的ではない。これは最善なのか? いや、間違っているかも。いや、他の道があるかもしれない。……というように、深く思考する人は必ず分裂する。他人の目からは、その人間は、下した結論のみで印象づけられる。そして、それ以外の多面性が“そこにはいない”のだ。

『アイム・ノット・ゼア』はディランを題材にした映画であると同時に、思考することを止めない人間という生き物の習性をとらえた作品でもある。私にも、あなたにも、複数の私やあなたがいる。ヘインズの挑戦は、そう考えさせることにあったのではないだろうか。

文:相馬学

情報誌編集を経てフリーライターに。『SCREEN』『DVD&動画配信でーた』『シネマスクエア』等の雑誌や、劇場用パンフレット、映画サイト「シネマトゥデイ」などで記事やレビューを執筆。スターチャンネル「GO!シアター」に出演中。趣味でクラブイベントを主宰。

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