「サッカーを辞めてしまおうと...」ブレイク中の湘南FW福田翔生が語る“血反吐を吐く想いだった”過去【インタビュー前編】

2019年、地元の強豪校、東福岡高校を卒業し、当時JFLのFC今治に加入。翌年、チームはJ3昇格を果たし、シーズンごとに着々と順位を上げていくなかで、福田翔生は満足な出場機会を得られず、もがき苦しんでいた。

22年末に今治との契約が満了――いわゆる“クビ”を経験した後、Y.S.C.C.横浜へ加入した。すると、わずか半年で湘南からのオファーを勝ち取り、J1の舞台へ這い上がる。その背景にはどんな想いがあったのか。23歳の湘南のシンデレラボーイが自身のキャリアを回想したインタビューの前編をお届けする。

――◆――◆――

2023年、Y.S.C.C.横浜に“拾ってもらった”福田は、8月中旬までの21試合で11ゴールを記録。すると彼のもとには、湘南ベルマーレから完全移籍の誘いが舞い込んできた。そして湘南で初のJ1を戦った半年を経て迎えた今季、8節の横浜F・マリノス戦でJ1初得点を挙げると、その後に出場したリーグ戦8試合で5ゴールを挙げ、一気に注目度を高めた。

いわゆる「パリ五輪世代」に当たる23歳だが、代表招集の経験はなく、湘南に辿り着くまでのプロとしての5年間は、サッカーを辞めるか、続けるかの綱渡りのような旅路だった。

そんな福田が負のサイクルから脱出できた背景には、幼少期から支え続けてくれた家族の存在があった。

01年3月23日、福岡県北九州市の小倉区に生まれた福田(以下・翔生)は、先にサッカーを始めていた兄・湧矢(現・ガンバ大阪)に憧れて、双子の兄・凌生(現・KMGホールディングスFC)とともに地元の小倉南FCに入団する。

「サッカーを始めたのは、幼稚園の年中か年長くらいですね。兄ちゃん(湧矢)がサッカーをやっていて、めちゃくちゃ上手かったんですよ。それを見て、俺もやりたいなと思い、双子(凌生)で『一緒にやるか!』と。お父さんは野球をやっていたので、僕ら兄弟にも絶対に野球をやらせるって言っていたんですけど(笑)、サッカーをやるのに反対された記憶はそこまでないですね。多分、兄ちゃんが上手かったから、ここから野球をやらせるのは無理だなと思ったんじゃないかなと」

【PHOTO】勝利を願い選手と共に闘った湘南ベルマーレサポーター

地元で名を馳せていた兄・湧矢と切磋琢磨しながら、翔生も日々、成長。サッカーにのめり込んでいく一方で、私生活では“やんちゃ”な面も見られた。

「サッカーだけはすごく好きで、真面目にやっていましたけど、どんな子どもかと言われれば、めっちゃ“悪ガキ”って感じでしたね(笑)。すぐにイタズラするし、外をほっつき歩くし、ちょっと時間があったら騒いでいるし...色んな人に怒られた記憶があります」

ただ、他人に迷惑をかけることは多少あったかもしれないが、サッカーを続けてこられたのは周囲の温かいサポートがあったからだった。

「中学生まで小倉南FCでプレーしていましたが、そこがすごく良いクラブでした。監督の野口(英昭)さんが素晴らしい方で、ドリブルに重きを置く技術的な面はもちろん、人間性の部分でも教わるものが多かった。サッカーの面でも、人間的な面でも、僕の原点になった場所です。厳しすぎない、自由な環境でのびのびとサッカーを楽しめたのは大きかったと思います。

あとはもちろん、両親の教育もあります。人に優しくする、人のことを馬鹿にしたりせず、大切にする姿を見せてくれましたし、その背中を見て育ちました」

そして翔生から“悪ガキ”の要素が取り除かれたのが、高校時代だ。小倉南FCに加入した時と同様に兄・湧矢を追って地元の強豪校・東福岡高校に進学。そこで目にしたのは、自由な環境で生きてきた翔生にとって衝撃的な縦社会だった。

長友佑都(現・FC東京)や毎熊晟矢(現・AZ/オランダ)ら、のちの日本代表を輩出し、翔生の同級生にも荒木遼太郎(現・鹿島アントラーズ)や大森真吾(現・北海道コンサドーレ札幌)らがいた東福岡高は、どんな場所だったのか。

「もう、思い出しただけで汗をかいちゃいますね。生活指導の先生にしっかり指導されました(笑)。大人の階段を“登らされた”と言うか、正されたというか...。

サッカーの面で言えば、走る・戦う。ピッチ外も含めて、規律は徹底されていました。ビブス1枚でも地面に落とさないだとか、礼儀の面もよく言われていましたね。例えば、プレーが上手くいかずに物に当れば、絶対にアウト。すぐに『走れ』と言われて、グラウンドの周りを延々と走らされます。

めちゃくちゃキツかったけど、必要な3年間でした。サッカーを上手くなるために行きましたけど、結果的には人間性の部分で成長できました。高校入学までは自由でしたが、サッカーをやり続けるためには変わらなければいけないなと感じさせられましたし、実際、変われたと思います」

3年次の選手権では背番号7を背負いながらベンチを温めるなど、サッカーの面では不完全燃焼な部分もあったのかもしれない。ただ、本人が手応えを感じたように、ひとりの人間として伸びた3年間だったのは間違いない。そして、そんな彼の姿を評価したクラブがあった。元日本代表の岡田武史氏がオーナーを務める、当時JFLのFC今治だった。

【記事】「アイデア豊富で素晴らしい」“天才”小野伸二が絶賛した29歳の元日本代表は?「見ている人は、『なんだこのパス』って思うかもしれないですけど...」

翔生は当時、サッカーへの自信こそ失っていなかったが、3年生の夏頃までJクラブから声はかけてもらえず、「そういうことなのかな」と他の進路を探っていた。そんな翔生に秋に唯一オファーを出してくれたのが今治だった。本人は当時を次のように振り返る。

「今治の強化部にいた高司(裕也)さんが僕の出ていた試合を見てくれて、『練習参加だけでも良いから来てくれ』とお話をいただきました。オーナーの岡田さんは小さい頃から知っていて、その下でプレーしてみたいとの想いもあり、加入を決めました」

また、オファーを受けるか悩んでいた翔生の背中を押した人物もいた。

「ギリギリのオファーだったので悩みましたが、東福岡の森重(潤也)監督が『大学や社会人リーグではなく、なるべくプロに近い環境のほうが翔生には合っている』と言ってくれたので、それを信じて進路を決めました」

高校での厳しい3年間を過ごし、自ら掴み取ったプロへの切符(当時JFLに所属していた今治とはプロ契約)。2年前にJ1のG大阪に入団した兄・湧矢とカテゴリは異なるが、自身の努力次第で憧れの兄と対戦できるチャンスを得られる。「絶対に這い上がってJ1に行く」と、翔生はルーキーイヤーから燃えていた。

実際、キャンプから一定の手応えはあったという。スピードや強度の差は多少なりとも感じたものの、「やれないほどではない」というのが当時の翔生の感覚だった。

だが、翔生は思い描いた通りのスタートを切れず。初年度から長いトンネルに迷い込み、今治では苦しい4年間を過ごすことになる。

「使ってくれれば活躍できるという自信はあった」

プロ1年目の19年、ひたむきな姿勢でトレーニングに励んだが、思うような出番は訪れず。同年、チームがJFLで3位に入り、J3昇格を果たしたなかで、翔生は公式戦3試合のみの出場にとどまった。

2年目はスペイン人のリュイス・プラナグマ監督の就任で風向きが変わり、小倉南時代からの武器であるドリブルを買われてリーグ戦18試合に出場。プロの舞台でどう振る舞うべきなのか、感覚を掴みかけた。

しかし、21年の5月にリュイス監督が解任されると、たちまち序列が下がった。必死のアピールも実らず、3年目は3試合、4年目は12試合の出場。その間、先発は1度のみで、シーズン終了後にクラブから戦力外通告を言い渡された。

苦労の連続だった今治での4年間は、どんな日々だったのか。本人は言葉を詰まらせながら「血反吐を吐く想いだった」と回想する。

「兄ちゃんの活躍を見て、早くJ1でやりたいという想いがあった。4年間を通して、常に“もっとやらないと”と焦っていました。普通の練習を真面目にこなしても試合に出られないから、定められた時間以上に、もっと練習をする。それでも試合に出られないと、さらに練習を増やす。監督やコーチに『やりすぎだ』と止められることもあったし、時には練習をしすぎて怪我をすることもありました。

正直、必死だったし、一秒でも早く上に行きたかったんです。自信はあったけど使ってもらえず“なんでだよ”と思ったこともあったし、使ってもらえないということは、今の自分を評価してもらえていないんだと、良くない方向に考えを巡らせたり...完全に負のサイクルでした」

【PHOTO】編集部が厳選! ゲームを彩るJクラブのチアリーダーを一挙紹介!

4年間、サッカーが好きだという想いに変わりはなかった。上達のために、1日中サッカーのことだけを考えて、行動した。ただ、大好きなはずのサッカーには、常に焦燥感が付きまとっていた。

「俺に休んでいる時間はない。もっともっと突き詰めてやらないといけない、というのがずっと頭にあったから、やりすぎた。追い込みすぎてリラックスできる時間がほとんどなかったし、そんな生活を繰り返しても、試合には出られない。サッカーが大好きなはずなのに、常にネガティブなことを考えているような状態で...。今治在籍中、もうサッカーを辞めてしまおうと思った時もありました」

絶望の淵に立たされた翔生を救ったのは、家族の存在だった。

「家族が支えてくれなかったら、今の自分はないです。多分、壊れていました。常に『翔生なら絶対に大丈夫だから、やれるだけやっておいで』というスタンスでいてくれたし、サッカーを辞めるか悩んでいた時は、両親が九州から会いに来て、抱きしめてくれた。そこで“俺はこの人たちのために戦うんだ”と思えたんです」

22年末に今治から契約満了を言い渡された時も、家族の支えがあったという。

「クビだと言われた時は頭が真っ白になって、何も考えられなかった。他のクラブからのオファーもなく、また心が沈みそうになっている時に、両親が『いつでも辞められるんだから、もうちょっと頑張ってみたら?』と言ってくれて、『絶対に見返してやる』と火が付いたんです。

また、新しいチームが決まるまでの期間は兄ちゃんと凌生もトレーニングに付き合ってくれて。毎日、『チーム決まらない。やばい。どうしよう』と話していた覚えがあるんですけど、いつも励ましてくれました」

家族のサポートで再び前向きにサッカーへ取り組み始めたものの、新たなチームが決まらず落ち着かない日々を過ごす。そこへ、クラブ探しに奔走していた代理人から一本の電話がかかってきた。

後編へ続く。

取材・文●岩澤凪冴(サッカーダイジェスト編集部)

© 日本スポーツ企画出版社