「何度も『お母さんを』と」押阪忍さん逝去、長男・DJ OSSHYが明かす栗原アヤ子との “おしどり夫婦” ぶり…命日には「ちょっとした奇跡」が【画像多数】

2018年ごろ、押阪さんと栗原(前列右)の結婚記念日を祝った。後列左がDJ OSSHY、後列右は次男の智彦さん(写真提供・DJ OSSHY)

7月8日、民放出身のフリーアナウンサー第1号として知られる押阪忍さんの逝去が明らかになった。自身が設立した芸能事務所「エス・オー・プロモーション」を通じて、6月29日に公表された。享年89。

押阪さんは、1958年に日本教育テレビ(現・テレビ朝日)アナウンス部へ1期生として入社。

1964年の東京五輪で「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレーボールのベンチリポートを担当したことや、『ベルトクイズQ&Q』(TBS系)の3代め司会者として知られている。

タレントで、同じくアナウンサーの栗原アヤ子とは、1963年に結婚。1971年のフリー転身後は “おしどり夫婦” として、テレビ番組などにもたびたび出演していた。

現在、押阪さんが創立したエス・オー・プロモーションの代表取締役社長を務めるのは、長男で、ラジオやディスコでDJとして活躍しているDJ OSSHY(本名・押阪雅彦)だ。

お茶の間からは真面目で厳格に見えた押阪さんの素顔を、息子視点で語ってもらった。

「家では新聞を2紙読み、よく見るテレビ番組は『NHKニュース』。民放のバラエティ番組に出演していましたが、ほとんど見ることはなく、ニュースと大相撲だけでした。

また、人様に見せるなら “きちんとした家” にしておきたい、という意識の高い人だったと思います。観葉植物を育て、家の前を毎日掃除し、自宅前を通る人たちから見える家の外観に、つねに目を向けていたのが印象的です」(以下、DJ OSSHY)

テレビに映る真面目な様子は、プライベートでも同じだったようだ。

「基本的には “ド” がつくほど真面目な性格でしたね。特に礼儀作法には厳しかったです。そろそろ還暦の私に最近の最近まで、父からこのような注意がありました。

『人前で話すときに体を動かさない、言葉はゆっくり話す、長々と話さない』と。思い返してみると、礼儀作法についての注意が多かったかもしれません。

あとは何ごとも自分中心で、つねに自分が主役。他人と遊んだり、群れたりするのは嫌いでしたね。基本、何をするにも、どこに行くにも母と2人で行動していました」

DJ OSSHYの子供時代、押阪さんは厳格だった。大人になってからの「DJ」という仕事にも難色を示していたと振り返る。

「子供のころは国語、算数、理科、社会の成績が悪く、音楽と体育の成績はよかったんです。そんな成績の通信簿を父に見せると、ビンタが飛んできましたね(笑)。

剣道、習字、そろばん、ピアノ、塾などの習いごとをしていましたが、自分がやりたい習いごとはゼロ。認めてもらえず悔しかったですし、習いごとは嫌で嫌で仕方ありませんでした。

しかし、後々になって、絶対音感や忍耐力の部分で大いに役立ち、いまに活かされて感謝しています。

初めて自我が芽生えて父に反発した結果、ディスコDJの見習いを始めたのですが、大激怒されました。とにかく『父に認められるDJになりたい』という想いを原動力に、今まで継続してきました」

父に認められるきっかけは、2000年にDJ OSSHYが企画したイベントだったと、しみじみと語る。

「親子で参加できる『ファミリーディスコ』を企画したとき、初めて評価してもらえました。それをきっかけにDJ活動を支持してくれるように。

それ以降も『シルバーディスコ』『ユニバーサルディスコ』などの企画も支持してくれて、周囲に息子自慢をしている父の姿がとにかく嬉しかったですね。

父に認められるまで30年間かかりましたが、『やっと報われたな』と」

時折、厳格な父から垣間見える “優しさ” もあった。

「私の友達や仲間たちを、学歴や職歴関係なく、差別や偏見もなく、誰でも大切に接してくれましたね。

小まめにお礼状を書いたり、個別にご機嫌伺いを欠かさない気遣いも印象に残っています。本当に『心』のある人だったんだな、と思いますね」

老衰で亡くなった押阪さんだが、近年はどのような様子だったのだろうか。

DJ OSSHYの印象は「食欲が途切れない強烈な姿だった」という。

「晩年は誤嚥性肺炎だったため、胃ろうでの栄養摂取でした。でも、面会のたびに『シュウマイ、まんじゅう、弁当を買ってきてほしい』とよく頼まれましたね。

これが面会でのお決まりのセリフでした。ただし経口摂取は禁止。それでも、ヘルパーさんに1000円を渡し、内緒でしょっちゅう注文していたそうです」

亡くなる1カ月前に、本人が一生懸命話すことがあった。

「ただ、そのころは言葉が聞き取れない、何を話しているのか、よくわからないような状態でした。それでも最後の最後まで、母について話してくれたんです。

『お母さんを大事にしてくれ』『日本一のお母さんだよ』『おもしろくてやさしい人だ』『話が長いけど、最高の母だよ』。そう何度も言われました。そして一つの話題を終えるたびに、いつも『ありがとう』と。

正直、話がわからず適当に相槌を打って対応していることもありました。母・アヤ子は、途中から相槌もやめて真顔になっていて……。

私が『どうしたの?』と母に尋ねると、「(父が)なに言ってるかまったくわからない」と率直に言ったのには笑いました。たしかに、母はおもしろい人です」

そして、迎える押阪さんの命日。その日に「奇跡が起きた」とDJ OSSHYは話す。

「もともと7月1日にお見舞いに行く予定でしたが、6月29日の仕事終わりに、ふと顔を出しておくかと思い、病院に向かいました。これまでそんなことは一度もなかったので、本当にたまたまです。

病院に到着してから15分ほどで父が息を引き取りました。しかも、家族全員がちょうど病室に集まっていたときです。父が集合をかけてくれたんだな、と思いましたね。

宣告されていた余命より、少し早い時期だったので、全員が集まるなんて、ちょっとした奇跡ですよ」

さらには告別式の際、住職さえもビックリさせた出来事が。

「住職さんがお経を読んでいる最中です。戒名の紹介部分を読んだところで地震が起きました。

7月4日午後12時すぎです。地鳴りのような揺れで、住職さんは『今までの葬儀で初めての体験。まるで、押阪さんが “自分のことを忘れるな” と参列者に叫んでいるようでした』とおっしゃっていました。

最後の最後まで、父の底力を感じた出来事でした」

天国に旅立った父に、感謝のメッセージを伝えるなら?

「何事にも『ピンとキリ』を大切にするように、という教え。『継続は力なり』という教え。『心のある人であれ』という教え。父から教わったこのイズムを、しっかり受け継いで、これからも生きていきます。親父、ありがとう」

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