「まさか難聴とは…」聞こえない娘と向き合い続け、4歳で初めて「ママ」と呼んでくれた日【体験談】

美保さんと元さんは、夏鈴さんと積極的にお出かけをして一緒にさまざまな体験をしました。

千葉県に住む松澤美保さん(49歳)は、夫の元さん(53歳)と長女の夏鈴さん(22歳)の3人家族。現在調理師として働く夏鈴さんは、生後まもなく難聴と診断され、3歳で人工内耳を装用する手術を受けました。幼い夏鈴さんと一緒に、言葉の練習に取り組んだ美保さん。その子育てについて話を聞きました。全2回のインタビューの1回目です。

重度の先天性難聴で生まれた娘を育てるシングルマザー。親子でおしゃべりできるようになる日まで【体験談】

まさか、難聴かもしれないなんて・・・

夏鈴さん生後2日。産院のベビーコットでねんねしています。

今から22年前の5月。松澤さん夫婦に待望の第1子の赤ちゃんが生まれました。母親の美保さんの妊娠中の経過も順調そのもの。妊娠38週で陣痛が来て自然分娩で生まれた赤ちゃんは、すぐに元気な産声(うぶごえ)を上げました。美保さんは「やっと会えた!! これからこの子と一緒に歩んでいくんだな」と赤ちゃんとの生活に期待で胸をふくらませていました。

女の子は「立夏のころに生まれ、風鈴の音色のようにまわりの人をなごませる子であってほしい」との願いから「夏鈴」と名づけられました。
夏鈴さんは生後2日目に、新生児聴覚スクリーニング検査を受けました。するとその結果は、美保さんの思いもよらないものでした。

「産院には“聴覚スクリーニング検査”のチラシが貼ってあり、そこで生まれた赤ちゃんはみんな検査を受けているようで、わが子も受けることに。すると、その検査の結果はまさかの『リファー(要再検査)』だったんです。リファーとは『聞こえるときの反応がないため再検査、もしくは精密検査が必要』という意味だそうです。医師は時間をあけてその日のうちに3回ほど検査してくれ、さらに翌日の朝にも再検査してくれましたが、やはり結果は『リファー』。生後5カ月ごろに詳しい検査を受けるように、と専門の病院を紹介されました。

『まさか、耳が聞こえないかもしれないなんて・・・』信じられませんでした。私は保育士という職業柄、赤ちゃんは音に対しても反応してモロー反射(※)が出ると理解していたので、母子同室で娘のお世話をしながら、モロー反射のようなものが見られるわが子の様子に『検査結果はリファーだったけれど、やっぱり聞こえるんじゃないか』と、検査結果をなかなか受け止められませんでした」(美保さん)

産後退院してから、美保さんは子どもの聴覚障害についてインターネットなどでさまざまな情報を調べます。

「詳しい検査をするまでの数カ月、いてもたってもいられず、毎日毎日いろいろと調べたところ、都内にある聴覚障害の子どものための教室を見つけました。そこでは、難聴のある乳幼児を育てる親のための、難聴についての基本的な知識を学べるような講座があったんです。わらをもつかむ思いで、生後数カ月の娘を抱っこして、その教室のホームトレーニングを受けに行きました。

その教室では難聴の種類や聞こえ方、難聴児の教育などについて学ぶほかに、難聴の子には目を見て話す、子どもの手を親の胸に当てて振動を感じさせながら話す、いろいろな音を聞かせる、といった基本的な接し方を学びました。難聴について学びながら、たくさん娘に話しかけ、たくさん歌を歌って聞かせました。奇跡が起こってほしい・・・と願いながら、生後5カ月ごろの詳しい検査の前にあらゆることをした記憶があります」(美保さん)

※モロー反射:生後0~4カ月までの間に見られる原始反射の一つ。赤ちゃんが急にびくっと動き両手をあげ抱きつくような動作をすること。

「できることなら私の聴力を娘にあげたい」と落ち込んだ

1歳のころ、ベビー型補聴器をつけている夏鈴さんを抱っこする美保さん。

夏鈴さんは生後5カ月のころ、千葉県内の専門病院で詳しい聴覚検査を受けました。

「楽器の音を聞かせて目の動きや反応を見る検査、眠らせてヘッドフォンで音を聞かせて脳波を測定する検査などをしました。その結果、聴力レベルは130dB(デシベル)以上で、ジェット機の真下でようやく爆音が聞こえるくらいの、『難聴』との診断でした。

『重い難聴』という検査結果に、頭の中が真っ白になりました。まさか自分の子が難聴をもって生まれてくるとはまったく考えもしなかったことでした。自分の子が生まれたら、絵本をいっぱい読み聞かせてあげたかったのに、とか、テレビの子ども番組をつけてもこの音は聞こえないのかな、この先音楽は楽しめないのかな、聞こえないのにどうやって言葉を教えてあげればいいんだろう、と落ち込むばかりでした。

どうして私はこの子を難聴に産んでしまったんだろう、と自分を責めました。できることなら私の聴力を娘にあげたい、とも思いました」(美保さん)

ひどく落ち込む美保さんに、前向きな言葉をかけてくれたのは、夫の元さんでした。

「夫は『遅咲きの桜があるように、夏鈴も遅咲きなんだよ。だからぼくたちのペースでゆっくりやっていこう』と言葉をかけてくれました。『夏鈴はおなかの中で、音が聞こえない暗闇の中でも頑張って生まれてきたじゃない。この子にはそういう強さがあるから絶対に大丈夫だよ!』とも『言葉がなくたって、おれたちには笑顔の武器があるじゃん! いっぱい笑顔を見せてあげようよ』とも。

夫はいつも私を励ますようなことを言ってくれるんです。不安でいっぱいの私の心に夫の言葉がすっと入ってきて、『前向きに行こう』と少しずつ思えるようになりました」(美保さん)

夏鈴さんは専門病院の医師のすすめで、日常的に補聴器を装用して様子を見ることに。当時の乳児用補聴器は、胸元につけた補聴器で音をひろい、耳にイヤホンをつけるタイプのものでした。

将来の選択肢を増やしたいと、人工内耳の手術を検討

写真と文字を見せて音声を聞かせ、言葉の練習を重ねました。当時の美保さんのかばんの中は写真カードだらけだったそうです。

その後、専門病院からの紹介で夏鈴さんと美保さんは県内にある大学付属養護学校の「きこえとことばの乳幼児教育相談」に通い始めました。

「その教育相談では、補聴器の調整をしてくれたり、難聴の子への話しかけ方や接し方を学びました。手話を使うよりも声でたくさん話しかけるという教育方針でした。ただ、娘の難聴はかなり重かったので、声でコミュニケーションを取ろうと私が頑張っても娘は理解できないし、私も娘が伝えたいことを理解してあげられなくて、悪循環になっていました。そのうち、娘が壁に頭を打ちつけるような行動が見られるようになってしまいました」(美保さん)

夏鈴さんが2歳を過ぎたころから、美保さんは夏鈴さんの人工内耳の手術について考え始めました。人工内耳は、皮下に埋め込む受信装置と、マイクで音をひろう体外装置があり、頭皮をはさむように磁石でくっつくようになっています。マイクで拾った音を電気信号に変換し、内耳の蝸牛(かぎゅう)に挿入した電極で聴神経を直接刺激することで、脳に音を伝えるようにする装置です。

「声だけでコミュケーションを取ろうとすると意思の疎通が難しく、本人がつらくなってしまう様子が見られたので、ベビーサインも取り入れながら、同時に人工内耳のことを調べ始めました。当時は人工内耳を装用している人の数もあまり多くなかったですし、娘はまだ小さくて人工内耳をつけるかどうか自分で選択ができない年齢でしたし、親として非常に悩みました。

夫といろいろと調べて話し合いました。娘が大きくなって生きる社会は、聞こえる人のほうが数が多く、みんなが手話を使えるわけではありません。そういう中で聞こえる人とコミュニケーションを取りながら生きていく必要があります。人工内耳をつけて、声でもコミュニケーションが取れるようになれば、娘が自分でどんな生き方をするかの選択肢を広げてあげられるんじゃないかと考えました」(美保さん)

初めて「ママ」と言ってくれた喜び

人工内耳の手術のあと、入院中の夏鈴さん

現在では、適応条件を満たせば1歳半くらいから人工内耳を装用するための手術ができ、また時期をずらして両耳に装用することができますが、当時は手術ができる年齢は3歳で、片耳だけというのが主流でした。

「娘は3歳のときに都内の総合病院で左耳に人工内耳を装用する手術を受けました。人工内耳を装用しても、すぐに音が聞こえるようになるわけではありません。マイクからひろって電気信号に変換された音は、始めは『ピ、ピー』といった電子音のように認識されるそうです。少しずつ聴神経が刺激に慣れていくとともに、刺激が「音」らしくなっていくと説明されました。

人工内耳から入ってくる音声をことばとして獲得できるように、療育でのトレーニングや医療機関での調整を行う必要がありました。私たちは、手術を受けた総合病院と、人工内耳の“マッピング”という調整をする病院、診察を受ける耳鼻科専門病院、そして乳児期に通っていた聴覚障害の子どものための教室の4カ所に通いながら過ごす日々でした。
3歳になってすぐ人工内耳の手術をしたあと、3歳4カ月のころ私の声かけに振り向いたのが、ことばへの最初の反応だったと思います。『今、呼んだのがわかったのかな?』とドキドキしたことを覚えています」(美保さん)

また、夏鈴さんは3歳から、音声言語の練習に加えて手話や指文字を使いながらのコミュニケーションをするために、葛飾ろう学校の幼稚部に通うことになりました。

「聴覚障害児の教育機関は、学校によって手話を使う・使わないなど方針が異なっていました。娘にとっては音声だけのコミュニケーションよりも、手話などを併用したほうがいいかもしれないと考えて学校を変えることに。葛飾ろう学校へ通いながら、療育機関で練習したことを家でも毎日練習する日々でした。

たとえば、家の中のあらゆるものに名称を書いて貼っておくんです。テレビに『テレビ』と書いた紙を貼って『テレビ』と声で聞かせて、実物と文字とその名前の音をマッチングさせてことばの獲得につなげます。
聞こえる子が1回で覚える言葉があるとしたら、難聴の子はその言葉を1000回聞いてやっと習得できるのだそうです。
ほかにも「おはよう」のあいさつなど日常会話で使う言葉を獲得するために、台本を作って、毎日その台本どおりに声かけをする練習も。とにかくたくさんたくさん、娘に話しかける毎日でした。

そんなふうに練習を重ねていたら、4歳を過ぎたある日、娘が初めて『ママ』と言ってくれました。それはそれはうれしくて・・・すぐに仕事中の夫に電話をかけて『夏鈴がママって言ってくれた!』と報告したことを覚えています」(美保さん)

地域の人に、聞こえない夏鈴のことを知ってほしかった

夏鈴さん3歳のころ。七五三で神社へお参りに。

保育士として働いていた美保さんですが、夏鈴さんが生まれてからは仕事をやめ、病院や療育やことばの練習にずっとつきそいました。美保さんは「地域の人に夏鈴のことを知ってほしい」と積極的に外出していたそうです。

「人工内耳を装用する前から、娘と一緒にいろいろな体験をしに出かけました。スーパーへのお買い物やお散歩も一緒に行きましたし、踏切のあるところへ行って『“カンカン!”と鳴るとしゃ断機が下りてくるよ、電車が来るから危ないよ』と音と危険を結びつけられるように教えることもありました。

そうやって歩いていると、補聴器をつけている娘を見て近所の人が『イヤホンで何を聞いてるの?』『こんなに小さいのにハイカラだね!』と話しかけてくれることがありました。そのたびに『チャンス!』と思って、『実は耳が聞こえないんです。これは音をひろう機械で、補聴器なんですよ』と説明しました。この子が成長して生きていく地域の人たちに、娘の難聴のことを知ってほしいと思ったんです。しだいに、よく行くスーパーで『夏鈴ちゃん、こんにちは』と店員さんに声をかけてもらえるようになりました」(美保さん)

お話・写真提供/松澤美保さん 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部

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一生懸命に夏鈴さんの難聴に向き合う美保さんと、前向きに励ます元さん。美保さんの話からは、松澤さん夫婦の夏鈴さんに対する深い愛情が伝わってきます。
次回の内容は、夏鈴さんが地域の小学校へ進学したのち、中学時代に手歌の合唱団「ホワイトハンドコーラス」に出会うまでについてです。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年6月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

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