生まれつき難聴の娘。「聞こえないから・・・」とあきらめていた音楽を楽しめる日が【体験談】

サッカー観戦が大好きな夏鈴さん。家族で「柏レイソル」サポーターなのだとか。

千葉県に住む松澤美保さん(49歳)の一人娘・夏鈴さん(22歳)は、生後5カ月で重い難聴と診断され、3歳のときに左耳に人工内耳を装用する手術を受けました。聞こえにくさがありながら、地域の小学校へ進学した夏鈴さん。中学はろう学校に進学しましたが、インクルーシブ合唱団・ホワイトハンドコーラスNIPPONに出会い、音楽の楽しさを知ったそうです。夏鈴さんの成長の様子や、コーラスでの活動などについて、美保さんに話を聞きました。
全2回のインタビューの2回目です。

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人工内耳の手術後、トレーニングを重ねて声で日常会話ができるように

夏鈴さんが言語訓練をしていた当時の絵日記。

生後5カ月で生まれつきの重い難聴と診断された夏鈴さん。3歳のときに左耳に人工内耳の手術を受けました。母親の美保さんは、夏鈴さんの乳児期から言葉を獲得するための療育につきそいながら、自身も手話を学びました。

「娘が幼児期に通っていた葛飾ろう学校の親のための手話講座では、手話を学んだり、聴覚障害のある人がどんなことで困るのか、嫌な気持ちになるのか、といったことも学びました。葛飾ろう学校には聴覚障害のある保護者もいたので、自分から積極的に手話で話しかけたり、一緒に遊びに行ったりして、ろう文化も学びました。さらに地元の手話サークルに入り、自宅でNHKの手話講座を見て練習を重ねました。とにかくたくさん手話に触れよう、娘の言語を学ぼうと、一生懸命でした」(美保さん)

葛飾ろう学校の幼稚部に通う4歳〜6歳の間に、夏鈴さんの言葉の力はぐんぐん発達しました。

「4歳くらいのころは発音が聞き取りづらい言葉だったけれど、私たちもだんだん娘の言葉が聞き取れるようになって、娘も話すのが上手になってきました。6歳になると親子で声で日常会話ができるように。それで、小学校は地域の小学校に進学することにしました。

娘が大人になって聞こえる人が中心の世界で生きるときに堂々と生きてほしいという願いと、地域の同じ学齢の子どもたちに、聞こえない娘のことを知ってもらいたい、という思いが強くあったからです」(美保さん)

聞こえない子のことを知ってほしい。手話クラブの講師をした母

地域の小学校へ進学した夏鈴さん、2年生の運動会の様子

地域の小学校に入学することになった夏鈴さん。特別支援学級と通常級と行き来しながらの小学校生活がスタートしました。美保さんは聴覚障害について知ってもらうために、保護者会で新聞を作って配布しました。

「『夏鈴新聞』という資料を作ったんです。娘の自己紹介と聴覚障害があって人工内耳をつけていること、話すときには顔を見て話してほしいこと、話しかけても知らんふりのように見えることがあるけれど無視しているわけではないこと、などを書きました。保護者のみなさんが真剣に読んで理解しようとしてくれたことがうれしかったです」(美保さん)

美保さんは小学校の児童たちにも聴覚障害のことについて知ってもらおうと、クラブ活動で「手話クラブ」を作り、その指導にも携わりました。

「クラブ活動では手話を教えたり、聞こえない体験をしてもらったりしました。聞こえない体験では、何人組かのグループを作り、そのうちの1人の子に耳せんとイヤーマフをしてもらいます。ほかの人はヒソヒソ声で話して、1人だけ聞こえにくい状況を作ります。

その状況で、私が小さな声で『今から外に行くから帽子をかぶってください』と指示すると、聞こえる子どもたちは帽子をかぶって廊下に出ますが、聞こえない設定の子は『今みんなは何をしているんだろう?』と戸惑ってしまいます。そんなふうに、聞こえない子の世界がどんな感じなのか、どんな気持ちになるのかを体験してもらうことで、聴覚障害について理解してもらいました」(美保さん)

「音楽は楽しめないだろう」とあきらめていたけれど・・・

夏鈴さんが成人式の日の家族写真。

夏鈴さんは小学校で友だちもでき、美保さんもPTA活動をとおして地域の保護者とのつながりができました。しかし学年が上がるにつれて、通常級の授業についていくことが難しくなる場面が増えたことなどから、夏鈴さんは、中学校は葛飾ろう学校の中等部へ進学することになりました。

あるとき中学部で配布されたお知らせで、美保さんと夏鈴さんは「東京ホワイトハンドコーラス(現在はホワイトハンドコーラスNIPPONで活動)」という団体のことを知りました。ホワイトハンドコーラスは、もともとは26年前にベネズエラで生まれた活動で、声で歌う「声隊」と歌詞を手話で表現する「サイン隊」で構成されます。聴覚や視覚、身体に障害のある子どもも障害のない子どもも一緒に演奏を行うインクルーシブ合唱団として、日本でも活動を開始する、というお知らせでした。

「もともと娘は音楽は苦手だし好きではありませんでした。人工内耳をつけてもリズムは感じられないと聞いていたこともあり、私もあえて音楽には挑戦させていませんでした。だからお知らせを見ても『音楽か・・・、夏鈴にできるのかなぁ』と。

ただ、学校以外のコミュニティでいろんな子たちと触れ合えたり、刺激をもらえたら楽しそうだなと思い、見学に行ってみることに。そのときは、楽器をならすような体験があったと思います。すると、私の予想に反して娘はとても楽しそうで、帰り道に『また行きたい』と言うんです。私は少し不安で、聞こえない娘が入っても大丈夫か、指導のコロンえりか先生に聞いたら、満面の笑みで『大丈夫ですよ〜ぜひ来てください!』と迎え入れてくれました」(美保さん)

手で歌を表現する「手歌」と合唱とを合わせたコーラス隊は、日本で初めて。夏鈴さんが参加するサイン隊の活動は、歌の歌詞を読み込んで「手歌」を作るところから始まりました。夏鈴さんは毎週日曜日の練習に通い始めて、とても楽しそうにしていたそうです。

「メンバーの子どもたち自身で歌詞を読み込んでどういう情景かを考えながら、その歌詞にふさわしい手の動きを相談しながら考えました。歌の背景を想像しながら解釈を深めることで、手の動きにいっそう気持ちを込められるようです。そんなふうにして子どもたち自身が作った『手歌』は、えりか先生が前に立って表現してくれ、その動きにサイン隊が合わせる形で合唱します」(美保さん)

声隊はサイン隊とは別に練習をして、コンサートが近づくと合わせる、というふうに練習します。活動を通して、美保さんは「聞こえなくても音楽が楽しめることがわかった」と言います。

「娘が楽しそうに練習する様子を見て、私は『娘は耳が聞こえないから音楽が聞こえないだろう』と、端からあきらめていたことに気がつきました。ホワイトハンドコーラスで練習する子どもたちの姿に、できるかどうかではなく、やりたい気持ちを大事にすること、工夫をすれば可能性は無限大なんだ、と教えてもらいました。

娘自身も、年齢もバラバラでさまざまな個性がある子どもたちが集まるコミュニティで、音楽だけではなく思いやりの心が育ったと思います。いろいろな背景を持つ人たちとかかわる中で、お互いに学びを得たり、励まし合ったり、年下の子が泣いていればそばに寄り添ったり。一人っ子の娘にとって、ホワイトハンドコーラスのメンバーはきょうだいのような大切な仲間になったんだと思います」(美保さん)

ウィーンでの演奏直前に、人工内耳にトラブルが

ホワイトハンドコーラスで手歌の演奏をする夏鈴さん。(©︎ Mariko Tagashira )

やがて東京ホワイトハンドコーラスは「ホワイトハンドコーラスNIPPON」として京都と沖縄へも活動の幅を広げ、各種メディアでも注目されるように。2024年2月には、オーストリアの財団が主催するバリアフリーのアカデミー賞「ゼロ・プロジェクト・アワード」を受賞し、ウィーンの国連事務局でベートーヴェンの交響曲『第九』の演奏を行うことになりました。しかし、ウィーンへ行く1カ月前に、夏鈴さんの人工内耳にトラブルが起こってしまいました。

「人工内耳は、皮下に埋め込む受信装置とマイクで音をひろう体外装置が、頭皮をはさむように磁石でくっつくようになっているんですが、なぜか体外装置がくっつかなくなってしまったんです。MRI検査をしてみると、皮下の人工内耳のところに血腫ができて分厚くなってしまっているとわかりました。止血剤を服用しても、なかなかくっつきません。

3歳で人工内耳の手術をしてから、こんなことは初めてでした。体外装置が装用できなければ、娘はまったく音が聞こえない状態になります。飛行機に乗るときの気圧の変化で、血が出ているところにどんな影響があるかもわからないし、まったく聞こえない娘を海外へ行かせることに親としての不安もあります。ウィーンに行くかどうか家族でかなり悩みました。でも娘は『どうしても挑戦したい』と泣きながら訴えました」(美保さん)

最終的に主治医の許可も下りたため、夏鈴さんは人工内耳を装用できない状態でウィーンへ旅立ち、大舞台での本番を迎えることになりました。

「初めての海外公演なのに会話も笑顔も少なくなり、とても不安な様子ではありましたが、精いっぱいに演奏して、大きな舞台で仲間たちと一緒に練習の成果を発揮することができました。演奏後にたくさんの手話の拍手(顔の横で両手をヒラヒラさせる)と、聴衆のみなさんの笑顔の表情が見られてとてもうれしかったようです。『頑張ってよかった』と言っていました。

帰国後しばらくして止血剤が効いたのか人工内耳がつくようになり、 聞こえを取り戻してからウィーンでの演奏のビデオを見返しました。娘は『こんなにすごい歓声と、たくさんの拍手をもらっていたんだね』とびっくりしながらも、大きな自信になったようです。ホワイトハンドコーラスの子どもたちみんなの力で、国境を超えて聴衆の心を動かした瞬間が見られたことは、私にとってもとてもうれしいことでした」(美保さん)

「私の料理で笑顔になってほしい」

調理師の資格を取るために、専攻科で学んでいるころ。

夏鈴さんは現在22歳。病院で調理師として働き始めて2年目になります。

「人と触れ合うことが好きな娘は『料理をとおして人と触れ合って、その人たちを笑顔にしたい』と調理師をめざして、葛飾ろう学校の食物系の専攻科に進みました。就職活動では苦労しましたが、なんとか病院の調理師として就職が決まりました。その病院は、偶然にも私の父が亡くなったところでもあり、娘はおじいちゃんのことを思い出しながら『患者さんが私が作った料理を食べて笑顔になってくれたらいいな』と、頑張っています。

娘が日曜日が仕事の場合はホワイトハンドコーラスの練習には参加できないので、私が代わりに練習へ行き、練習動画を撮影します。娘は毎日の仕事のあとにその動画を見ながら手歌を練習しています。娘は私に『チャレンジしたい気持ちがあれば、きっと壁は壊せる』と教えてくれました。娘にとってホワイトハンドコーラスの活動は生きがいの一つ。仲間たちと一緒に舞台に立つことを目標に、本番に向けて練習する姿はいきいきとして、とても幸せそうです」(美保さん)

【ホワイトハンドコーラスNIPPON代表 コロンえりかさんより】

手歌を作るときだけでなく、手歌の指導をするときにも、子どもたちの意見を聞いて、みんなで表現を考えます。子どものほうがいいアイデアを持っていることが多いし、自分で決めたことは自分で責任をもってできるからです。責任を持って挑戦して、小さな成功を積み重ねる体験が、子どもたちを大きく成長させると思います。

子どもが他人と違うことは親として不安になるときがあるかもしれません。でも、子どもの個性は神様からの特別なプレゼント。悩んでいるときはどこを歩けばいいかわからなかったとしても、振り返ればそこに道がちゃんとできています。松澤さん親子から私もたくさんのことを教えていただきました。

お話・写真提供/松澤美保さん 取材協力/コロンえりかさん 取材・文/早川奈緒子、たまひよONLINE編集部

生まれつき重度難聴のある女の子。手で音楽を奏でるホワイトハンドコーラスとの出会い【体験談】

ホワイトハンドコーラスの活動で「聞こえなくても音楽が楽しめる」とわかってから、美保さんは自分の趣味のエイサーに夏鈴さんを誘い、2023年には沖縄のうるま市エイサー祭りにも具志川青年会の一員として親子で参加したのだとか。美保さんは「音が取りにくいから少し動きは遅れますが、エイサーにチャレンジできたことも、娘の大きな自信になったようです」と話してくれました。

「たまひよ 家族を考える」では、すべての赤ちゃんや家族にとって、よりよい社会・環境となることを目指してさまざまな課題を取材し、発信していきます。

ホワイトハンドコーラスNIPPONのYoutube

●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は2024年6月当時の情報であり、現在と異なる場合があります。

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